『いやしい鳥』藤野可織

いやしい鳥

いやしい鳥

相方の本棚にあった小説。どこかで面白いと聞きつけて買ったのだそうだが、読まずにほったらかしにされている様子なので、代わりに(?)読む。
どうも中途半端な感じがするなあ。川上弘美梨木香歩のような幻想ものというには俗だし、寓意をとると、ちょっと陳腐なものしか思い浮かばない。
この小説集のあと書いているのかどうか、アマゾンで調べてみたら、今年1冊短編集を出している。
下手じゃないけれど、それほど強くもない、という感じでした。

『望遠ニッポン見聞録』ヤマザキマリ

望遠ニッポン見聞録

望遠ニッポン見聞録

テルマエ・ロマエ』大好きです。その著者ヤマザキマリさんのエッセイ。海外在住の日本人にありがちな、過剰な日本ラブな話や、逆にここが変だよニッポン人的な話は、じつはあまり好きではない。いくらマスコミの発達で画一化されたからといって、日本は広い。そう簡単に「日本人とは」でくくってほしくない。
で、このエッセイは、若干、そういう雑なことをしているところもないではなかったけれど、もうちょっと距離感をもって、日本人がというより日本のこういうCMがイタリア人に受けたとか、イタリア人がというよりイタリア人の姑はこうである、とか、エピソード的なところが面白かった。
そのひとつで、イタリアのGEOXという靴メーカーのCM。日本的なものがちょこっと出てくる。

あと、どうでもいいけど、先日、ある助産婦さんの妊活の本で、「今の人は、和式便所にしゃがまないので、足腰が弱くなって、胎児の体に障害が出る」てなことが書いてあったのだけれど、ヤマザキマリさんによると、西洋人はローマ時代から腰掛け型トイレである。のみならず、しゃがむ、という行為をすると「何やら恥ずかしそうに顔を赤らめ、『早く立ち上がりなさいよ』と促してくる」くらい、しゃがむ行為をいやがるのだそうだ。川田順造先生も、西洋人は掃除洗濯の際、しゃがまずに跪く、アフリカ人は腰からぱたっと体を折る、と書いていた。もしあの助産婦さんの言うことが本当だったら、西洋人は障害者だらけだよな。

『毒婦 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』北原みのり

毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記

毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記

本書を読みながら思い出したのは、有吉佐和子の『悪女について』や東野圭吾の『白夜』である。ともに男を罠にかけてのしあがっていく女のストーリーである。『悪女について』がドラマ化されたときは沢尻エリカが、『白夜行』が映画化されたときは、堀北真希が演じた。つまり、わかりやすい「美女」である。
ストーリーはそのままに、不美人が悪女を演じて、そして、あっさり男たちが殺される(本人が認めていないのと、物証がないので、まあ、不審死をする、という方が正確か)。それもすさまじいのだけれど、北原みのりの書きぶりにそのまま乗っかってしまうなら、被害者の男たちも、なんだか、いたたまれない人たちだなあ、という気がする。傍聴に来た女性が言う「男性の結婚観って、古いですよね。介護とか、料理とか、尽くすとか、そういう言葉に易々とひっかかってしまう。自分の世話をしてくれる女性を求めているだけって気がするんです。佳苗はそういう男性の勘違いを、利用したんだと思う」との指摘でいえば、佳苗は「古い」男だけを、上手に嗅ぎ分けてひっかけたのではないかと思う。
利用したどころか、与えたのではないか、と北原みのりはいう。警戒心をいだくような美女ではなく、等身大の女からのおいしい手料理、やさしい言葉、女を保護したいという欲望、男たちはかなえられた甘い夢の中で、最後に睡眠薬を与えられ、一酸化炭素の充満する中で、夢から覚めずに亡くなった。その代金として、数百万円いただきました、と。
殺さないだけで、同じようなことをしている女は、結構いると思うよ、と同僚(男)に言われた。夢と代金を引き換えに、ただし命はとらず、上手に「別れ」を演出して、さようなら、と。
そう、結局そこなんだよね。面白いといっちゃなんだが、佳苗にひっかかる、という現象自体は、北田みのりの言う通り、男女の非対称性なり、現代日本の結婚観なりあぶりだしていて、興味深いのだけれど、最後に殺す、いや、不審死っていうのは、飛躍があるよなあ。もうそこには、「利用してやろう」じゃなくって、「こいつが嫌いだ」という明白な意志が働いているような気がする。命を奪うほどの強い憎悪。佳苗は、男たちのなにが嫌だったのか。それが結局この事件のキモなんじゃないか。

『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』森達也

ぱらぱらっと立ち読みしたら、知っている編集者の名前があったので、おーご活躍で〜と、彼へのお祝儀がてら買ってきた。
で、その編集者なのだけれど、天然ぼけ的なキャラクターに描かれていて、森さんからどつかれたり、けっとばされたり、たいへんである。でも、私の記憶では、いたって常識的な好青年なんだよね。だから、なにかと重たく、いかがわしくなりがちな話を、明るく軽くするために、あえてそういう人物造形をされているのだろうと思う。
今、読み終えてひと月ほど立ってしまっていて、内容はもうほとんど忘れてしまっているのだけれど、ひとつだけ記憶に残っているのが、お寿司屋さんの話だ。常連のお年寄りが脳溢血かなにかで急逝した。以来、きまった時間にお寿司屋さんの自動ドアが勝手に開く。しばらくしてまた開き、閉まる。まるで、目に見えないだれかが入ってきて、しばらくカウンターに黙って座っていて、やがて帰って行くように。森さんたちが取材に訪れたときも、開き、閉まった。
なんか、哀しいなあと思った。肉体を離れたあとは、だれもかれも、もう、この世の軛から解き放たれて、安らかであってほしい。聖書で、「死んだ後もたましいがあるのなら、旦那が次々死んで、次々新しく結婚した女は、死後、だれの妻なんですか」という質問をした律法学者に、イエスが「ばっかじゃないの、ちゃんと聖書よめよ。死んだ後に、人間の掟なんてもんは、かんけーねーよ」と応戦する。
そうでなくっちゃなあ。死んだらもう、限定的な時代や文化に規定されたくないよね。
時代や文化といえば、カール・セーガンの「人はなぜ似非科学に騙されるのか」という本のなかで、異種遭遇譚は時間や文化に規定されるという話があった。中世ヨーロッパだったらマリア様、現代だったら宇宙人、ってな具合。マリア様と宇宙人が一緒にされたらカトリックの人は怒るでしょうが、でも、マリア様や宇宙人に見えるソレってなんだろうね。死者の霊はいたたまれないけれど、超越者や異種っていうのは、なんだかありがたいような滑稽なような気がする。

『リトル・ピープルの時代』宇野常寛

リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

『ゼロ世代の想像力』を読んで、現代を反映した名作まんが(と宇野常寛が認識した作品)のラインナップをチェックできたので、今回もそれを期待して読む。
でも、今回はその目的は果たせなかったなあ。というのは、もっぱら「男の子文化」についての評論なのだ。ウルトラマン仮面ライダー、ゴレンジャー、ガンダムエヴァンゲリオン……いずれも、まったく興味がわかず、観ようと思わない。読んだことも観たこともないから、評論としての面白さもわからない。
そういえば、電車の中で本書を読んでいたら、隣に座っていた5歳くらいの男の子から、「仮面ライダー!?なんで仮面ライダーの本読んでるの?」と聞かれた。なんでだろうねえ。ちょっとおばちゃん、読む本間違えちゃったかもー。

村上春樹「1Q84」の分析は、まあ、かろうじてつながりが持てる部分だった。宇野常寛の分析では、「リトル・ピープル」とは「小さな父」である、と。「1Q84」はタイトルからして、オーウェル「1984」の「ビッグ・ブラザー」が下敷きにされていることがわかる。「リトル・ピープル」は「ビッグ・ブラザー」が壊死したのちの「父たち」であると。すなわち、現代では中央集権的な「父」(ビッグ・ブラザー)が機能しなくなり、ネットワーク化された「わたしたち」だれもが、否応なしに「父にさせられてしまう」という状況を描いているのだという。
読んでいるときは、ふむふむなるほど、と思ったのだけれど、あらためて本書読了後「1Q84」を読んでみると、「そうかなあ」という気がする。なぜかっていうのはうまく説明できないけれど。
あと、「レイプファンタジー」ということばをはじめて知った。ネットで意味を検索したら、どうも宇野常寛の用語で、男子が、自分よりか弱い女の子に、プライドを傷つけられずにコミットメントするファンタジーのことだそうです。女の子のほうから男子を好きになって、煮るなり焼くなりすきにしてちょーだいと言い寄ってくる、みたいなストーリーのことか? まあ、女子用のおとぎ話も何の取り柄もない「私」に「王子」から言い寄ってくる、みたいなストーリーがあるしなあ。いや、何も取り柄がない、といいつつ、なにかしらの「努力」を要請しているのか、女子用ファンタジー。「努力」ってなんだ。手練手管か。それもいやだなあ。

『1Q84book3』村上春樹

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

「リトル・ピープルの時代」(宇野常寛)に「1Q84」の分析が書いてあったので、ああ、そういえばBook3が積ん読だったなあ、と思い出して、引っ張りだしてみる。
ちなみに、Book1,2を読んだのは2009年8月。3年前だ。なので、すっかり話を忘れてしまっていた。ネットであらすじを探したのだけれど、ネタバレに配慮されちゃったりしていて、難儀した。結局、うろ覚えのまま読み進める。でありながら、引き込まれて、すごいテンションで読み進めてしまう。いろいろと記号を読み解きたくなるのは相変わらずだ。「リトル・ピープル」とはなにか、「空気さなぎ」とは? なぜ青豆は妊娠するのか? NHK集金人の父は? などなど。さあ、読み解けとばかりに。でもその手には乗らないぞー。ただのエンタメ小説として味わうつもりで読んでいたが、そういう意味でも十分面白かった。青豆と天吾はあえるのか、とか、青豆が牛河に追いつめられて行く様子や、危機一髪で(でも、後味悪く)牛河から逃げるスリリングさとか、1Q84から脱出できるのかとか、どきどきはらはらシーン満載。
宇野常寛が、村上作品の主人公が父になるのは、これがはじめてだと指摘していたが、今後、村上作品に、「父になった僕」が登場するようになるのだろうか。子供をみて「やれやれ」とか言う父。じつは春樹はわたしの父と同世代である。春樹がもし「父としての僕」を書いたら、父と共有する面をかいま見ることができたりするのかもしれない。

『舟を編む』三浦しをん

舟を編む

舟を編む

複数の人に、「編集の仕事ってなにをするの? 『舟を編む』みたいなこと?」と言われたので、どんなもんか、読んでみた。
うーん、まあ。この小説でも、とくに何をしているか、触れているわけではないよなあ。原稿とりはするけど、著者を脅したりはしません。徹夜作業に絆は生まれません。これは、あくまでも小説で、現実はもっと淡々としております。しかも、仕事の内容はもっとバリエーションに富んでおります。だから、現実はなかなか小説にはなりにくく、そんな業界を小説にしてしまったこと自体が、しをんさんの実力なのでしょう。
学園ドラマが現場の教師にはおもはゆく、医師ドラマが現場の医者には噴飯もので、刑事ドラマが現場の刑事には別世界に感じるようなのと、同じようなことだと思う。
この小説は、小説というよりは、まんがっぽい。人物造形にしろ、状況描写にしろ。読み手の脳裏に、まんが的表現が浮かぶということは、書き手もその状況を思い描きながら書いているのかなあ、と思う。まんがも良質なものは文学と同等だと思うのだけれど、まんがが文学から影響される、というよりも、小説がまんがから影響を受けちゃう時代なのねえ、と思った。

『聞く力 心をひらく35のヒント』阿川佐和子

聞く力―心をひらく35のヒント ((文春新書))

聞く力―心をひらく35のヒント ((文春新書))

一週間の京都出張の折の、つれづれの慰めに、現地の本屋で買った本。これが案外役立ちました。
出張の目的は営業なので、初対面の人から有益な情報を引き出さなければならない。それが、阿川さんの対談技術と意外にリンクする。
たとえば、質問をたくさん用意して行かない、「あれ」と思ったことを聞け、あいづちにバリエーションをもたせよ、安易に「わかるわかる」というな、しったかぶりをするな、などなど。
ちなみに、質問をたくさん用意して行かない、というのは、以前やはり営業に悩んで読んだおちまさとの対話術と真逆だ。おちまさとは、質問を10個用意して行け、と書いていた。この質問10個法は、入社数年の初心者にはたいへん有意義でした。ただ、さすがに10年やっていると、わざわざ質問をあらかじめ書き出しておかなくても、だいたい何が話題になるかわかってくる。そうなると、そうしたベースの質問はともかくとして、この人には、これは話題にしておこうかね、というものは1つで十分だ。ということで、今年は阿川式に切り替えた。…というほど大げさなものでもないか。まあ、臨機応変に、ということですね。
「あれ」と思ったことを聞け、というのが一番、今回の営業に役立ちました。相手の話のなかから質問の糸口を引き出す、ということであります。「お話うかがってますと、〇〇のような気がいたしますが、どうなんでしょうか」みたいなフリをしてみる。すると、それぞれの現場の特徴なり、その人の考え方なり、こちらの売り込みの有力なきっかけになる情報がぴらりっと出てきて、たいへん助かった。
週刊文春のインタビューは、構成作家、速記者、編集者、カメラマンなど複数の前で行うトークショーのようなものだ、というのも、本書ではじめて知った。なるほど、考えてみたらそうだよね。しかも掲載時には構成作家さんがだいぶきれいに整えているらしい。構成作家って面白いけれど、難しい仕事だ。インタビュー丸々捨てて、資料をもとにまるで別のものを書いたことがある、というライターさんの話を聞いたことがある。阿川さんの場合は、そういうことはないだろうけれど、基本的に話し言葉と書き言葉は違うのだ。書き言葉に翻訳しつつ、空気はのこす。文春を読むかぎり、なかなかの腕前の人だと思う。

『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて」安田浩一

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

なんだか、すごいものを読んでしまった。読み終わってしばらく呆然とする。
在特会在日特権を許さない市民の会)という、ネットウヨクの人たち、レイシズムむき出しのデモ行進をする若者たちの、ひとりひとりに取材をしたノンフィクション。思うことが多々ありすぎて、まとまらないので箇条書きにする。

1)読みながら、私自身、むらむらとわき起こる、彼ら(在特会の人々)への差別感情を抑えきれなかった。
情報リテラシー能力をもつこと、二項対立ではなく多角的に検証すること、不正確なことは公的な場では発言しないこと、的確に伝えること、相手を傷つけずに問題提起をし、解決への道を探ること、その際には感情を抑えること……などなど、高校生ぐらいから、大学あるいは社会人になってからも、さまざまな場面で(時には失敗しながら)学び、獲得し、あるいは獲得すべく努力してきたこと。そうしたすべてのコミュニケーション技術を、徹底的に無視する人々がいる。その様子をむらむらっと、黒い感情がわき起こるのを抑えきれなかった。なんて愚かな、なんてくだらない……、そんな方法で鬱屈した感情を他者にぶつけても、なんの解決にも、なんの前進にもならないのに、愚かな、愚かな人たち。
そうして、そう思っている自分に、いたたまれない思いがした。
40代の在特会「元地方支部幹部」は「会員の被害者意識は強烈だった」というそうだ。「加害者」とは、大手メディア、公務員(教師)、労働組合、グローバル展開する大企業、その他左翼全般、外国人など。「なんとなく高学歴で、なんとなく高給与で、なんとなく守られている。そんなイメージが少しずつ、かぶりますよね。それ以上に重要なのは、在特会メンバーの多くは、これら加害者のような存在になりたくてもなれない、そんな場所で生きているということなのかもしれません」
自分は、たまたま、「なんとなく守られている」世界に生きている。本当にたまたまだと思う。自分だってたまたまなのに、たまたま生きづらい環境にある人たちに、なぜ蔑みの気持ちを向けてしまうのだろう。どうしてこんな黒い感情が生まれるのだろう。こうした蔑みの空気が、彼らをより一層生きづらくさせ、鬱憤ばらしに走らせているのかもしれないのに。私は、彼らを追いつめる側の人間だ。

2)コミュニケーション能力には、格差があるのかもしれない。そして、私はその格差を作り出す側にいるのかもしれない。
本書を読みながら、へたへたと力が抜けるような気がしたのは、今まで自分が作ってきた教科書は、まったく彼らに届かないだろう、と気づいたからだ。彼らのような、自分の思いを伝えたいという熱意をもつ人たちに、コミュニケーション技術を教えるために、nikkouの敬愛する大村はま先生はじめ、多くの国語の先生たちはがんばってきたのに。
今、国語の教科書は、完全な格差化が進行している。十分なボキャブラリーと、論理的な思考能力、社会への感心を十分に養ってきた子供たちむけの教科書と、小説と評論の区別もつかず、そもそも活字など新聞はおろか漫画さえ読まない子供たちむけと、その中間の子供たちに向けて当たり障りのない優等生的な文章を並べた教科書と。
なぜ、こんなに国語能力に格差があるのか。あまり大きな声では言えないのだけれど、実感としては、環境だろうな、と感じている。お父さんが朝一でラジオ・ビジネス英会話を聴き、お母さんが読みかけの茨木のり子の詩集から面白い詩を書き抜いて冷蔵庫に貼る家の子と、朝、子供が基礎英語を聴こうものなら「朝からぺらぺら気取ってんじゃねえよ、うるせえな!」と物を投げつけられる家の子とでは、どうしても言語能力に差が出てしまう。それが、ネットの言語を検証もせず反復することに、ためらう言語能力の子とためらわない子へと成長させるのではないか。
彼らのせいなのか。彼らの環境のせいではないのか。どうしたら、環境が変えられるのか。どうしたらいいのだろう。

3)回路はあるのではないか。
浜松原発停止デモを最初に開催した19歳の女の子、関口詩織さんの記事。
http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/special/2012060800010.html

彼女が「若者会議」を立ち上げた動機を読んで、ちと複雑な気持ちになる。
「同世代とですらすれ違いがありましたから、まずお互いが本音で話せる『場』が必要だと思ったんです。原発のことでも他のことでも何でもいい、まず相手の話を真正面から聞いて、自分のことも聞いてもらう。お互いが困っていること、悩んでいることを打ち明けられる場所。そういう対話の場がなかったことも、社会が原発問題をこれまで放置してきたこととつながっているんじゃないかと思いました」

たいへん、似た言説が本書にあった。
同じようなこと(社会とかかわりたい、同年代とさえ分かりあえない、本音で話したい、話す場が欲しい)をいいながら、かたや、朝日新聞に(賞賛的に)取り上げられ、かたや、社会的不適合者の集団として、鼻つまみにされる。なにが違うのだろう。主義主張の違い? 人間性の違い? 倫理の有無の違い? 社会の風潮による見られ方の違い? そうじゃない、と思う。というか、そういう二元論的なレッテル貼り(こっちの人は善で、あっちの人は悪って決めつけちゃうこと)は嫌いだ。たぶん、根はおなじだ。
だから、どこかで、通じ合える気がする。その回路が、どこかにあるような気がする。

4)ちょっと気持ちがわかる。それがまた、気をめいらせる。
在特会の人々と、nikkouは、たぶん同世代だ。だから、ちょっと気持ちがわかる。著者が取材したフリーライター渋井哲也の台詞は、的を射ている。「ネットの上では、左イコール優等生といったイメージが強い。はっきり言えば面白くないわけです。対して右には破壊力がある。面白いし、何よりも刺激的。」「つまり、タブー破りの快感です」たまたま、刺激的な言説がミギ側だっただけ。
左イコール優等生、の風潮に、nikkou自身、子供の頃からどっぷりと浸っていた。学校も、新聞も、反戦平和、差別反対。それはいいのだけれど、大人は本当にそう思って言っているのかなあ、そうしたほうが流れに乗れて楽だからじゃないの、……と思うことは多々あった。高校時代、頭越しに大人たちが学校で君が代斉唱をするかどうかを議論していて、「実際に歌うのは私たちの入・卒業式なんだから、私たちが検討するよ。その際には、プラス面マイナス面、どちらの説もフェアに公開してよね」と思っていた。たまに学校で議論の対象にあっても、君が代の「マイナス面」のみ強要されるようで、なにか隠されているような気がしてならなかった。
反戦平和・差別反対の言説の裏に、なにかが隠されている、なにかを強要されている、という感覚は、よくわかる。
だから、あんなに押しつぶされてきた差別的な言説を、わっと口にしたとき、なにか解放的な感情になるんだろうな、ということは、じつは想像に難くない。対象は今、主に「在日コリアン」だけれど、たぶん、私たちが問答無用に、ほとんど思考停止にさせられるほど強い圧力で、言葉を発することを止められてきた対象は、ほかにもある。
でも、もう、それをただ口からだだ漏れにさせるほど幼くもない。相手がある、ということを、子供の頃よりも具体的に描けるようになってきたからだ。
本書には、在日コリアン出身の在特会会員や、在日コリアンの友人を持つ会員も登場する。長らく、溜め込んできたんだろうね。でも、一度あふれてしまえば、やがておさまる種類のものなのではないか。
恐ろしいのは、そうしたやや幼い感情ではなく、小さな小さな悪意をもって、彼らを陰で支える人々である。なんとなく、在日は怖い、なんとなく、嫌い……ちいさな蚊も集まれば、柱が立ち、雲にもなる。ふうっと吹けば散るようなものだけれど、それが、昔も今も、じつはなんとなく、この国を支配してきたものの正体ではないか、という気がするのだ。

『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎(上)(下)』ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰訳

銃・病原菌・鉄 上下巻セット

銃・病原菌・鉄 上下巻セット

読もう読もうと思っていたら、文庫化していた。こりゃいい機会だ、ということでさっそく。
著者が調査のために滞在したニューギニアで、ニューギニア人の友人ヤリから、「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」と問われたことから始まる一大考察。
結論からざっくりまとめると、つまりそれは、「環境」のため、ということになる。
栽培に適した植物が自生していた地域、家畜化しやすい動物がいた地域から文明は発達する。➡農業と畜産によって食糧の安定供給が保たれ、食物生産に従事しなくてよい層の人々が生まれる。➡そうした階層の人々が、文字を利用して複雑な支配組織を作ったり、職業軍人になったり、工業製品を開発したりする。➡家畜のおかげで病原菌への耐性がつく。➡職業軍人、文字、病原菌への耐性によって優位に立つ地域の人々が、環境的に農業や畜産が未発達の地域を攻撃し、支配下に置く。
とまあ、そういうわけで、現在の世界の地域格差が生まれた、というのが、ダイアモンド氏の仮説。真偽のほどはともかくとして、なるほど面白いです。
ほかにも、興味深い指摘が次々。文明は東西には伝播しやすいが、南北にはしにくい。文字の発明は非常な困難を伴うので、世界でも数カ所でしか発明されなかった。海岸線が複雑な地域は統一しにくいのでヨーロッパは国境が細かくわかれ、中国は一つだった。ひろい面積をもつ国は、広い範囲から発明発見を集めやすい一方で、中央が進歩・開発の中止を決めると、広い範囲で進歩が一時停止してしまう。などなど。
なんとなく、後付けのような気もしないでもないところもあるが。
最終章の「アフリカはいかにして黒人の世界になったか」はよくわからなかった。ただ、こういう問題設定は面白いよなあ、と思った。

『原色の街・驟雨』吉行淳之介

原色の街・驟雨 (新潮文庫)

原色の街・驟雨 (新潮文庫)

「玉ノ井」という戦前の歓楽街の郷土史を読んだので、「玉ノ井」を描いた吉行の小説を読む。
売春の話は、女子的には、ちょっとキツいのだけれど、郷土史とあわせて読むと、興味深く感じるところもいくつか。たとえば「原色の街」の冒頭は、「玉ノ井」の街の様子をおそらくとても的確に表現しているのだろうと思う。

 本屋の隣は大衆酒場で、自転車が四、五台、それぞれ勝手な方向をむいて置かれてある。その酒場の横には、小路が口をひらいている。
 それは、極くありふれた路地の入口である。しかし、大通りからそこへ足を踏み入れたとき、人々はまるで異なった空気につつまれてしまう。
 細い路は枝をはやしたり先が岐れたりしながら続いていて、その両側には、どぎつい色あくどい色が氾濫している。……

現在の「玉ノ井」は、この「大通り」の雰囲気のみ残して、裏路地はそっくり消えているそうだ。繰り返すが、女子的には、売春はちとキビシい話なので、素朴に、「そりゃー、よかった」と思っている。今は普通の民家が軒を連ねているそうだけれど、一度散歩してみたい。

「驟雨」には、「カフェ」のシステムが描かれている。登楼後、最初に近所の銭湯に入るシステムもさりげなく描かれているし、「いま、時間のお客さんが上っているの。40分ほど散歩してきて、お願い」というカフェの女給の「道子」の台詞は、1〜2時間程度の時間買いの客と、一晩泊まる客とがある、ということを表しているのだろう。知っていて読むのと、そうでないのとでは、この世界の持つ「暗さ」の見え方がだいぶ違うような気がする。

「夏の休暇」に描かれている父子の、父は、今のnikkouより7〜8歳、若いのだろうね。「若い父」の危うさが面白かった。

最後に収録された「漂う部屋」と、長部日出雄の解説で、じつはこの作品群を書いた頃の吉行は結核で、「カフェ」に登楼したことがなかった、ということが判明して、驚く。作家の想像力って、そんなにもたくましいものなのか。

『短歌で読む 昭和感情史 日本人は戦争をどう生きたのか』菅野匡夫・『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』渡辺良三

短歌で読む 昭和感情史 (平凡社新書)

短歌で読む 昭和感情史 (平凡社新書)

歌集 小さな抵抗――殺戮を拒んだ日本兵 (岩波現代文庫)

歌集 小さな抵抗――殺戮を拒んだ日本兵 (岩波現代文庫)

大学生のころ、短歌を詠んでいた。そのころ、日本には「結社」というものがあって、それはそれはたくさんの市井の人々が、31文字にのせて生活を書き留めているということを知った。今でも、新聞の投稿欄には、毎週たくさんの歌が載る。今読んでもなにもめずらしくない平凡な歌ばかりでも、50年もすれば貴重な歴史の記録となるのだろう。

渡辺良三氏の『歌集 小さな抵抗』は、思うことが多々。もうひとつのブログ、『眠られぬ夜のために』に、そのうち、きちんと書こうと思っている。

『短歌で読む昭和感情史』に載っている短歌も面白いのがいくつか。

さがし物ありと誘(いざな)ひ夜の蔵に明日征(い)く夫(つま)は吾(われ)を抱きしむ 成島やす子
戦死せし兄が形見の戦闘帽 この頃父のかぶり歩くも 平井次郎
妻よ見よ蒔(ま)きたる小豆(あずき)日を吸ひて芽立(だ)ちきそへり死なずともよし 内藤濯
頭髪のやけうせしむくろがみどりごをいだきてころぶ日の照る道に 天久卓夫
大き骨は先生なりあまたの小さき骨側(そば)にそろひてあつまりてある 正田篠枝(原爆歌集『さんげ』より)

著者は、戦前・戦中の人々の生活はもはや、現代人にとって「異文化」であるのかもしれない、と書いてある。たしかに、家父長制にせよ、国家主義にせよ、言葉で説明されるのと、現実にそのような文化の中で生活していた人たちの実感とは、違うところがあるかもしれない。
でも、想像がまったく及ばない、ということもあるまい。社会や文化は変化しても、人間の感情はそう変わらない。

『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』徳善義和

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

健康診断がお茶の水の診療所であったので、その帰り道、クリスチャン・ブックセンターに寄って、なにげなく買った本。それが、ものすごく感動してしまった。
宗教改革のきっかけは、昼間っから道端で寝ていた酔っ払いのおっちゃんに、当時大学教授だったルターが「こんなところで昼間っから酔っぱらって寝てたら天国に行けないよ」と声をかけたら「これがあるから大丈夫でさあ」とおっちゃんから、握りしめた免罪符を見せられたこと、だそうだ。大学で神学を教えている場合じゃない、このおっちゃんの心に聖書の言葉を届けねば! とルターは、免罪符糾弾、ドイツ語訳聖書に突っ走ることになったそうな。

「ローマカトリックに反逆した改革者」というのは結果論で、「聖書に忠実であること」という修道院の誓約を心底守ろう、と決意した結果、カトリックの壁を突き抜けてしまった、というのが真相のようだ。それも、聖書をコツコツ読み、コツコツ大学の先生をやり、コツコツ日常生活を送っているうちに。「ひらめきの天才肌」というより、周囲の期待に応えるべく、目の前のことをコツコツやっているうちに、本質的なことを掘り当ててしまった、という感じ。なんだか勇気づけられる。目の前のことをコツコツ、というのは、きっと、無駄にはならない。

むっちゃ真面目な修道士だったそうで、当時の修道院が「義」としていた「清貧・貞潔服従」をむっちゃ真面目にまもっていた。でも、毎日毎日、今日もダメだったなあ、今日も「義」ができんかったなあ、という不全感で終わる。とうとう、「義」という言葉が大っきらいになってしまったそうだ。そんなある日、大学で詩篇を講義していたら「あなたの義が私を解放する」というフレーズにぶつかった。そりゃ、矛盾だ、と思ったそうだ。義は、私をむっちゃ、縛る。

そこでこの言葉をちゃんと考えよう、と思ったルター、聖書のほかの箇所に、同じことを言っている場面がないか、探したところ、パウロの手紙に見つけた。パウロは、義=イエスの愛で、解放された、と言っている。(nikkouの理解では、「イエスの愛」とは、相手にレッテルを貼らないこと、まわりに、「あいつ、やばいから、付き合わない方がいいよ」と言われても、その人の傍らにそっと寄り添って「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と言う、その「思い」「態度」のことだ)自分は、そうやって、イエスに愛されて、解放されました、とパウロはいう。ルターは、そこで、なるほど! と思ったそうだ。そりゃ、解放されるよなあ、と。そこを一点突破に、ルターは、中世神学の「義」の意味を変換、民衆への聖書解放へと全面展開していった。

やがて、カトリック教会から追われる身となったルターは、協力者にこんな手紙を書く。

あなたがたが恵みの説教者であれば、作り物の恵みでなく、本物の恵みを説教しなさい。もしそれが本物の恵みであれば、作り物の罪でなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人を救われはしない。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。

伝統をなぞるだけ、儀式を行うだけのキリスト教はもう、いらない、神様に体当たりしていこう、という明るい励ましだ。
礼拝で讃美歌をうたうことを始めたのもルターだそうだ。今のギターに似た楽器が好きだったとか。また、修道士ながら、結婚をし、子供に恵まれ、子供たちからまた多くの恵みを得たという。

たまたま前後して、NHKの、内村鑑三新渡戸稲造に関するドキュメンタリーを観た。やはり、時代の潮流にさおさして、正しい道を歩んだ人たち。さまざまな証言や著書から、彼らも必死に聖書を読み、必死に祈り、世の潮流に逆らっていても、この道が正しいことを確認しながら生きたということがわかった。そして、さまざまな迫害のなかでも、とても明るかった、と。
すごく、勇気づけられる。明日からも元気に歩いて行こう、と思う。

『累犯障害者』山本譲司

累犯障害者 (新潮文庫)

累犯障害者 (新潮文庫)

知的・身体的障害を負いながら、福祉の網にもれて、軽微な犯罪を犯し、刑務所に「保護」される人々を追ったノンフィクション。いたたまれない思いで読む。
なかでも衝撃的だったのは、ろう者のコミュニティ内で起こる犯罪だ。手話をまなびはじめて4年ほどになる。手話には抽象的な概念を示す言語がない、ということ、日本語とはまったく異なる文法をもつ独立した言語であることなどは、手話の先生から聞いてはいた。それはすなわち、日本国内に、日本語コミュニティとは異なった文化と言語をもつコミュニティが存在するということである。頭ではわかっていたけれども、それが具体的にどういうことなのか、彼らがどのような疎外感と閉塞感で、「日本語コミュニティ」の中に暮らしているか想像力が及んでいなかった。異なる文化と言語をもつ人々が犯罪を犯したとき、圧倒的に優位である日本語コミュニティの人たちが裁くということが、すでに差別ではないのか。裁判に関するさまざまな本を読んで、裁判とはすなわち「あなたはだれですか?」と問う制度である、と理解した。しかし、障害をもつ人たちに対して、裁判制度は機能していないのかもしれない。著者は、健聴者の手話はろう者に理解されない、ということを何度も言うが、諦めるのは早いと思う。デフ・ファミリーに生まれた健聴者の子供や、まれに非常な才能に恵まれた健聴者など、多くはないが、必ず、通路は開かれるはずだ。
ろう教会につどうろう者の人たちは、朝の礼拝から、夕方日が暮れるまで、熱心に手話で語り合っている。手話教室の健聴者の仲間たちが、「まだ帰らないのか、いつまでここにいるのか」と、若干辟易し始めたとき、手話の先生が、「ああやって、思う存分で手話で語り合うことで、彼らは、ひごろのストレスを発散しているんだよ」と言った。ろう教会に出会えた人たちは、幸いだった。より広く、より深く、ともに心が解放される場所が、健聴者にも、ろう者にも、与えられますように。

机が片付いたので

出張シーズンも一段落。おもいきって断捨離をして、机も書棚もずいぶん片付いた。ブックオ●に売った本は総額3万円。二束三文でしたが、nikkouの売った本たちが、どこかでだれかの役に立ってくれればと思います。ということで、気分一新、読みためていた本をアップしました。感想も、これからぼちぼち書き留めて、断捨離の続きで、書き留めた本はどんどん古本屋さんに売ってしまうことにします。