『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて」安田浩一

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

なんだか、すごいものを読んでしまった。読み終わってしばらく呆然とする。
在特会在日特権を許さない市民の会)という、ネットウヨクの人たち、レイシズムむき出しのデモ行進をする若者たちの、ひとりひとりに取材をしたノンフィクション。思うことが多々ありすぎて、まとまらないので箇条書きにする。

1)読みながら、私自身、むらむらとわき起こる、彼ら(在特会の人々)への差別感情を抑えきれなかった。
情報リテラシー能力をもつこと、二項対立ではなく多角的に検証すること、不正確なことは公的な場では発言しないこと、的確に伝えること、相手を傷つけずに問題提起をし、解決への道を探ること、その際には感情を抑えること……などなど、高校生ぐらいから、大学あるいは社会人になってからも、さまざまな場面で(時には失敗しながら)学び、獲得し、あるいは獲得すべく努力してきたこと。そうしたすべてのコミュニケーション技術を、徹底的に無視する人々がいる。その様子をむらむらっと、黒い感情がわき起こるのを抑えきれなかった。なんて愚かな、なんてくだらない……、そんな方法で鬱屈した感情を他者にぶつけても、なんの解決にも、なんの前進にもならないのに、愚かな、愚かな人たち。
そうして、そう思っている自分に、いたたまれない思いがした。
40代の在特会「元地方支部幹部」は「会員の被害者意識は強烈だった」というそうだ。「加害者」とは、大手メディア、公務員(教師)、労働組合、グローバル展開する大企業、その他左翼全般、外国人など。「なんとなく高学歴で、なんとなく高給与で、なんとなく守られている。そんなイメージが少しずつ、かぶりますよね。それ以上に重要なのは、在特会メンバーの多くは、これら加害者のような存在になりたくてもなれない、そんな場所で生きているということなのかもしれません」
自分は、たまたま、「なんとなく守られている」世界に生きている。本当にたまたまだと思う。自分だってたまたまなのに、たまたま生きづらい環境にある人たちに、なぜ蔑みの気持ちを向けてしまうのだろう。どうしてこんな黒い感情が生まれるのだろう。こうした蔑みの空気が、彼らをより一層生きづらくさせ、鬱憤ばらしに走らせているのかもしれないのに。私は、彼らを追いつめる側の人間だ。

2)コミュニケーション能力には、格差があるのかもしれない。そして、私はその格差を作り出す側にいるのかもしれない。
本書を読みながら、へたへたと力が抜けるような気がしたのは、今まで自分が作ってきた教科書は、まったく彼らに届かないだろう、と気づいたからだ。彼らのような、自分の思いを伝えたいという熱意をもつ人たちに、コミュニケーション技術を教えるために、nikkouの敬愛する大村はま先生はじめ、多くの国語の先生たちはがんばってきたのに。
今、国語の教科書は、完全な格差化が進行している。十分なボキャブラリーと、論理的な思考能力、社会への感心を十分に養ってきた子供たちむけの教科書と、小説と評論の区別もつかず、そもそも活字など新聞はおろか漫画さえ読まない子供たちむけと、その中間の子供たちに向けて当たり障りのない優等生的な文章を並べた教科書と。
なぜ、こんなに国語能力に格差があるのか。あまり大きな声では言えないのだけれど、実感としては、環境だろうな、と感じている。お父さんが朝一でラジオ・ビジネス英会話を聴き、お母さんが読みかけの茨木のり子の詩集から面白い詩を書き抜いて冷蔵庫に貼る家の子と、朝、子供が基礎英語を聴こうものなら「朝からぺらぺら気取ってんじゃねえよ、うるせえな!」と物を投げつけられる家の子とでは、どうしても言語能力に差が出てしまう。それが、ネットの言語を検証もせず反復することに、ためらう言語能力の子とためらわない子へと成長させるのではないか。
彼らのせいなのか。彼らの環境のせいではないのか。どうしたら、環境が変えられるのか。どうしたらいいのだろう。

3)回路はあるのではないか。
浜松原発停止デモを最初に開催した19歳の女の子、関口詩織さんの記事。
http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/special/2012060800010.html

彼女が「若者会議」を立ち上げた動機を読んで、ちと複雑な気持ちになる。
「同世代とですらすれ違いがありましたから、まずお互いが本音で話せる『場』が必要だと思ったんです。原発のことでも他のことでも何でもいい、まず相手の話を真正面から聞いて、自分のことも聞いてもらう。お互いが困っていること、悩んでいることを打ち明けられる場所。そういう対話の場がなかったことも、社会が原発問題をこれまで放置してきたこととつながっているんじゃないかと思いました」

たいへん、似た言説が本書にあった。
同じようなこと(社会とかかわりたい、同年代とさえ分かりあえない、本音で話したい、話す場が欲しい)をいいながら、かたや、朝日新聞に(賞賛的に)取り上げられ、かたや、社会的不適合者の集団として、鼻つまみにされる。なにが違うのだろう。主義主張の違い? 人間性の違い? 倫理の有無の違い? 社会の風潮による見られ方の違い? そうじゃない、と思う。というか、そういう二元論的なレッテル貼り(こっちの人は善で、あっちの人は悪って決めつけちゃうこと)は嫌いだ。たぶん、根はおなじだ。
だから、どこかで、通じ合える気がする。その回路が、どこかにあるような気がする。

4)ちょっと気持ちがわかる。それがまた、気をめいらせる。
在特会の人々と、nikkouは、たぶん同世代だ。だから、ちょっと気持ちがわかる。著者が取材したフリーライター渋井哲也の台詞は、的を射ている。「ネットの上では、左イコール優等生といったイメージが強い。はっきり言えば面白くないわけです。対して右には破壊力がある。面白いし、何よりも刺激的。」「つまり、タブー破りの快感です」たまたま、刺激的な言説がミギ側だっただけ。
左イコール優等生、の風潮に、nikkou自身、子供の頃からどっぷりと浸っていた。学校も、新聞も、反戦平和、差別反対。それはいいのだけれど、大人は本当にそう思って言っているのかなあ、そうしたほうが流れに乗れて楽だからじゃないの、……と思うことは多々あった。高校時代、頭越しに大人たちが学校で君が代斉唱をするかどうかを議論していて、「実際に歌うのは私たちの入・卒業式なんだから、私たちが検討するよ。その際には、プラス面マイナス面、どちらの説もフェアに公開してよね」と思っていた。たまに学校で議論の対象にあっても、君が代の「マイナス面」のみ強要されるようで、なにか隠されているような気がしてならなかった。
反戦平和・差別反対の言説の裏に、なにかが隠されている、なにかを強要されている、という感覚は、よくわかる。
だから、あんなに押しつぶされてきた差別的な言説を、わっと口にしたとき、なにか解放的な感情になるんだろうな、ということは、じつは想像に難くない。対象は今、主に「在日コリアン」だけれど、たぶん、私たちが問答無用に、ほとんど思考停止にさせられるほど強い圧力で、言葉を発することを止められてきた対象は、ほかにもある。
でも、もう、それをただ口からだだ漏れにさせるほど幼くもない。相手がある、ということを、子供の頃よりも具体的に描けるようになってきたからだ。
本書には、在日コリアン出身の在特会会員や、在日コリアンの友人を持つ会員も登場する。長らく、溜め込んできたんだろうね。でも、一度あふれてしまえば、やがておさまる種類のものなのではないか。
恐ろしいのは、そうしたやや幼い感情ではなく、小さな小さな悪意をもって、彼らを陰で支える人々である。なんとなく、在日は怖い、なんとなく、嫌い……ちいさな蚊も集まれば、柱が立ち、雲にもなる。ふうっと吹けば散るようなものだけれど、それが、昔も今も、じつはなんとなく、この国を支配してきたものの正体ではないか、という気がするのだ。