『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』森達也

ぱらぱらっと立ち読みしたら、知っている編集者の名前があったので、おーご活躍で〜と、彼へのお祝儀がてら買ってきた。
で、その編集者なのだけれど、天然ぼけ的なキャラクターに描かれていて、森さんからどつかれたり、けっとばされたり、たいへんである。でも、私の記憶では、いたって常識的な好青年なんだよね。だから、なにかと重たく、いかがわしくなりがちな話を、明るく軽くするために、あえてそういう人物造形をされているのだろうと思う。
今、読み終えてひと月ほど立ってしまっていて、内容はもうほとんど忘れてしまっているのだけれど、ひとつだけ記憶に残っているのが、お寿司屋さんの話だ。常連のお年寄りが脳溢血かなにかで急逝した。以来、きまった時間にお寿司屋さんの自動ドアが勝手に開く。しばらくしてまた開き、閉まる。まるで、目に見えないだれかが入ってきて、しばらくカウンターに黙って座っていて、やがて帰って行くように。森さんたちが取材に訪れたときも、開き、閉まった。
なんか、哀しいなあと思った。肉体を離れたあとは、だれもかれも、もう、この世の軛から解き放たれて、安らかであってほしい。聖書で、「死んだ後もたましいがあるのなら、旦那が次々死んで、次々新しく結婚した女は、死後、だれの妻なんですか」という質問をした律法学者に、イエスが「ばっかじゃないの、ちゃんと聖書よめよ。死んだ後に、人間の掟なんてもんは、かんけーねーよ」と応戦する。
そうでなくっちゃなあ。死んだらもう、限定的な時代や文化に規定されたくないよね。
時代や文化といえば、カール・セーガンの「人はなぜ似非科学に騙されるのか」という本のなかで、異種遭遇譚は時間や文化に規定されるという話があった。中世ヨーロッパだったらマリア様、現代だったら宇宙人、ってな具合。マリア様と宇宙人が一緒にされたらカトリックの人は怒るでしょうが、でも、マリア様や宇宙人に見えるソレってなんだろうね。死者の霊はいたたまれないけれど、超越者や異種っていうのは、なんだかありがたいような滑稽なような気がする。