『リトル・ピープルの時代』宇野常寛

リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

『ゼロ世代の想像力』を読んで、現代を反映した名作まんが(と宇野常寛が認識した作品)のラインナップをチェックできたので、今回もそれを期待して読む。
でも、今回はその目的は果たせなかったなあ。というのは、もっぱら「男の子文化」についての評論なのだ。ウルトラマン仮面ライダー、ゴレンジャー、ガンダムエヴァンゲリオン……いずれも、まったく興味がわかず、観ようと思わない。読んだことも観たこともないから、評論としての面白さもわからない。
そういえば、電車の中で本書を読んでいたら、隣に座っていた5歳くらいの男の子から、「仮面ライダー!?なんで仮面ライダーの本読んでるの?」と聞かれた。なんでだろうねえ。ちょっとおばちゃん、読む本間違えちゃったかもー。

村上春樹「1Q84」の分析は、まあ、かろうじてつながりが持てる部分だった。宇野常寛の分析では、「リトル・ピープル」とは「小さな父」である、と。「1Q84」はタイトルからして、オーウェル「1984」の「ビッグ・ブラザー」が下敷きにされていることがわかる。「リトル・ピープル」は「ビッグ・ブラザー」が壊死したのちの「父たち」であると。すなわち、現代では中央集権的な「父」(ビッグ・ブラザー)が機能しなくなり、ネットワーク化された「わたしたち」だれもが、否応なしに「父にさせられてしまう」という状況を描いているのだという。
読んでいるときは、ふむふむなるほど、と思ったのだけれど、あらためて本書読了後「1Q84」を読んでみると、「そうかなあ」という気がする。なぜかっていうのはうまく説明できないけれど。
あと、「レイプファンタジー」ということばをはじめて知った。ネットで意味を検索したら、どうも宇野常寛の用語で、男子が、自分よりか弱い女の子に、プライドを傷つけられずにコミットメントするファンタジーのことだそうです。女の子のほうから男子を好きになって、煮るなり焼くなりすきにしてちょーだいと言い寄ってくる、みたいなストーリーのことか? まあ、女子用のおとぎ話も何の取り柄もない「私」に「王子」から言い寄ってくる、みたいなストーリーがあるしなあ。いや、何も取り柄がない、といいつつ、なにかしらの「努力」を要請しているのか、女子用ファンタジー。「努力」ってなんだ。手練手管か。それもいやだなあ。