『やっぱり9条が戦争を止めていた』伊藤真

伊藤先生いわく、自分は「護憲派」とされているけれど、別に”改憲絶対反対”なわけじゃない。議論をつくして、もし、よりよい方に憲法を変えるというなら、賛成する、という。
さらに、その「議論」の際、重要なのは、「自分の意見」が、反対意見に耐えられるものであるかどうかだ、とのこと。
伊藤先生の考えに、心から賛成。
以前、あるキリスト教の集会で、「9条は神の言葉だ」とおっしゃったおじいさんがいて、ちょっと引いた。
まあ、戦争経験のある方にすればそれが実感なんだろうけれど、でも、9条は神の言葉じゃない。クリスチャン的にいうと神の言葉は、聖書だけだ。9条は人間が考えたものだ。だから、より、憲法を御心に近づけようとする努力はできると思う。今は9条が有効だから、9条を変える必要がないけれど、より有効な方法があれば、それに従って変えればいいと思う(それがどういうものかは、まだ分からないけれど)。
それと、反対意見に耐えられない意見など、議論にならない、という伊藤先生の考えも、心から賛成。
原発問題で、「反原発」派の人達の本もずいぶん読んだけれど、この人、ただ何かに反対したいだけなんじゃないのー、現実の問題に何もリンクしてないよなー、という人も結構いてうんざりした。
反対意見に耐えて、反対意見に歩み寄って、どう、現実的に解決していくか。その方向を見据えていないと、憲法の問題も、原発の問題も、なにも前進しない、と思うのだ。

さて、伊藤先生の9条論だけど、1つだけ、あまり感心できないところがある。
9条は、日本本来の精神を反映している、とする説だ。nikkouは、伊藤先生の高校の部活の後輩である。だから、武士道を引いて、そういうことを言いたくなる気持ちは、心情としては、よく分かる。でも、そういうことを言うときには、ちょっと慎重になった方がいいな、という気がしている。理由はふたつある。
ひとつは、「日本人はこうこう、こういうものである」という言い方をしてしまうと、そうでない人を排除する方向に働いてしまう、ということ。たとえそれが、「平和的」なものであっても、9条を守る、という結論に至るものであっても、やはり、同質の意見を持つ人だけを「日本人」として囲い込む言説は危険だし、結局、ヘイトスピーチのたぐいと同じ土俵だと思うのだ。すこしきな臭い考えを持つ人も、そう、ヘイトスピーチなんかをやっている人たちでさえも、やはり「日本人」だ、というところから議論をスタートさせないと、結局左右の陣営に分かれてののしり合うことになるんじゃないかなあ、と危惧する。
もうひとつは、そもそも、「日本本来の精神」が平和的かどうか、というところが、疑問なのだ。たしかに、近代になって生まれた「弓道」は、殺傷が目的ではない。伊藤先生やnikkouが教わった日置・正法流なんてのは、そもそも的に当てることさえ目的ではなかった。でも、それって、近代のスポーツだからなんじゃなかろうか。中世の武士は、やはり殺傷が目的で弓を引いていたし、中世文学はもちろん、近世や近代に入っての民俗学あたりがあきらかにする日本文化には、結構残忍なものがある。伊藤先生が根拠にする「17条の憲法」だって、貴族社会の中のものにすぎず、日本国憲法が保障するすべての国民に対してのものではない。要は、平和的な部分も、そして残忍な部分もある。それが日本文化であり、ひいては、人間の本性なんだと思うのだ。日本はこれこれこういうものである、という見方は一面でしかない。そこを議論の土台にすると、別の一面を示されたとき、あっけなくひっくり返ってしまうんじゃないか、というのが、ふたつめの危惧。
nikkouだって、伊藤先生の言う意味での「愛国心」は持っている。でも、それは、「日本は本来こういうものだ」というイデアを目指すより、内村鑑三のいうような「ふたつのJ」を愛する、という方向のほうが、健全な気がするんだよね。