『アは「愛国」のア』森達也

アは「愛国」のア

アは「愛国」のア

森達也さんは、どうして、ネトウヨの男性に、真摯に向き合えるのだろう、と感嘆する。
「僕が一番きらいなのは、原理主義者です。」というように、「ぜったいはんたーい!」で聞く耳持たん、という立場じゃないからなんだろう。
ネトウヨの男性が言うことを丁寧に聴いて、「その部分は、僕も同意します。」「その部分に関しては、僕は違う視点を(情報を、知識を)持っています」という風に対応していく。
大人だ。
やはり、愛だね.愛。(この場合の「愛」は、キリスト教でいう「愛」、つまり、「相手にレッテルを貼る=裁く」ことをしない「愛」)
それと、知識。
ネトウヨの男性の言葉を読むにつれ、無知、そして反知性主義は怖い、と心底思う。

読み終わって、私には、まだ考えたことがなく知りもしない問題や、考えてきたけれどまだ結論に至っていない問題が、たくさんあるんだなあ、と改めて気づかされた。

潮出版創価学会系版元)から出ているため、最後に宗教や信仰のことについて議論している。
森さんは、宗教とは「死への恐怖」と「聖なるものへのあこがれ」によって生まれた、と論じている。
一面の真理だと思う。私自身、信仰を持つきっかけは「死」と向き合ったことだった。


でも、個人的な意見として、「死」も、「聖なるもの」も、宗教のテーマのひとつにすぎない思う。
宗教が、そして、信仰者が、その土台にしているのは、たぶん、
「不明なものを追究したい」
という人間の思いだと思う。

「不明なもの」には、もちろん「死」も含む。でも、それだけじゃない。人間って何なのか。自分は、なぜ生まれてきたのか、どう生きたらたらいいのか。世界ってどうなっているのか。そんな、生きていて、もうどうしようもなく分からないことを追究したい。
近代以前は、それに、ずばり答えることが宗教の1つの役割だったんだと思う。(天動説とか、世界は真っ平らだとか、悪いことすれば地獄に堕ちる、とかね。)
もちろん、近代以後でも、疑似科学なんかはその「宗教」の役割を負っているように見える。

私は、そんな近代以前の信仰の「土台」を、人間として共有しながら、あっさり手渡される「答え」には、納得しない。
私に、「人間の問題を考え続けることは、けっしてむなしいことじゃない。」と、そう断言したのが、イエスの「求めなさい。そうすれば与えられます。」という言葉だった。だから、答えを求めて考え続ける、ということが、私にとって、信仰の表れになっている。

私は、「逐語霊感説」(聖書は「一語一句誤りなき神の言葉」という説)をとらない。やはり聖書は人間が書いたものだと思っている。でも、歴史の中で神を感じた人間が書いたものだとも思う。
あなたは、何を感じたの? それをどう伝えようとしたの? それは私の問題に、どんなヒントを与えてくれるのか。もはや名前も分からない聖書の筆者にそう問いかけながら、聖書を読んでいる。

私の信仰をリベラルすぎるという人もいる。
いちいち、「え? 聖書に書いてあるそれって、そういう意味?」なんて言うから、嫌がられて距離を置かれちゃったこともある。
でも、仕方ないんだ。私の信仰は、聖書からフォーチュンクッキーみたいな即答を得ることじゃなくて、聖書を通じて考え続けること、問題と向き合う勇気を与えられることなのだから。