『にこたま1〜5」渡辺ペコ

にこたま(1) (モーニング KC)

にこたま(1) (モーニング KC)

相方が時々買ってくる「モーニング」というマンガ雑誌に連載していて、断片的に読んでいたのだけれど、すごいうまい作家さんだと思っていた。
散歩がてらよった本屋で完結しているのを発見して、全巻大人買い
とにかく、会話がうまい。とくにつっこみがうまい。うまい会話ができるというのは、頭がいいということだ。
そして、男の人をよく観察して、よく表現している。相方がいうには、男の様子を、身がすくむほどよく見ているそうだ。男って、どうしょうもなく愚かなんだけれど、どうしょうもなく愛おしい生き物だなあ、という気がしてくる。
『「坊ちゃん」の時代 第三部 かの蒼空に」の解説で、フレデリック・L・ショットが、日本のコミックは、コミックではなく「グラフィック・ノベル」といったほうが適切なのではないか、と書いていたが、この作品なんか、本当にそう思う。

ところで、さきに読んだ「『坊ちゃん』の時代」では、「個人」より「家」が優先される明治の価値観が描かれていた。漱石や啄木は「家」を維持するために働き、鴎外は「家」のために恋愛をあきらめ、二葉亭四迷は「家」の重圧に苦しみ続けた。「家」とは、縦(系図)にも横(一族)にも張り巡らされた血縁関係であり、世間体を傷つけない事(「源氏物語」の時代、「物笑へ」と呼ばれたやつか?)がなにより重要であり、その負担は、「家長」にかかっていた。
一方本書では、「あっちゃん」の恋人「こーへー」のお母さんが、「二人とも若いし仕事してるし 今は昔と違うし 結婚とかこどもは 二人の気持ちで決めたらいいと思ってるの」といい、「こーへー」の上司の「高野さん」という女性は、シングルマザーとして生きる決意をする。「高野さん」のお母さんにも恋人がいて、娘とは関わりのないことだ、という態度でいる。本書の結論、「うまくいくかどうかは かかわるひとたちの 意志と 気持ちと あとは運じゃない?」という台詞は、鴎外のお母さんが聞いたら、卒倒しそうだ。鴎外が苦しんだ「家」はもうない。そのかわり、新しいコミュニティが人びとをつなげ、支え、あるいは傷つける。100年経って、日本の「家」のあり方はこんなに変わったし、今後も変わっていくんだろう、という予感がする。
古市憲寿は、コミュニティがあれば、ワーキングプアであろうが、戦争で日本が消滅しようが、生きていけると書いていた。ただ、本書を読んだあとに、古市氏の主張を振り返ると、「家」に代わるコミュニティを築くには、精神的なタフネスがすごく必要とされているような気がしてきた。「あっちゃん」も「高野さん」も、とても強くて賢い。高度なコミュニケーション能力や、現実を受け入れる柔軟さ、「世間」に流されない芯の強さがある。一方、「家」の維持に心身をすりへらしてきた男たちは、「家」が瓦解したとたん、宙ぶらりんになって、優柔不断となじられたり、自己嫌悪に陥ったりしている。男だけでない、あまりコミュニケーション能力の高くない「ともよ」という「あっちゃん」の友人も、孤独に苦しむ(「ともよ」はなんだか事故のような天然のような形で家族を手に入れるのだけれど、こううまくは行かないよな、と思ったりもする)。
現代人は、明治よりずっと自由になったと思う。それは良かったと思う。でも、明治の人が考えもしなかった別の厳しさにさらされているように思う。