『正岡子規』(ちくま日本文学040)

正岡子規 (ちくま日本文学)

正岡子規 (ちくま日本文学)

ちくま日文全40巻読了! 第一巻をの『内田百けん』を読んだのが2009年7月21日だったから、足掛け4年に渡ったことになる。長かったなあ。

正岡子規については、学生時代、短歌を詠んでいた関係で、何冊か知っていた。ただ、やはり時間が経ってみるとだいぶ感じる事が違うなあ、という気がした。
まず、エッセイや日記類に、時々とても詰まらないことを書いている。「病床六尺」など、読み通すのが苦痛であった。なんだか今の素人のブログみたいだ。わざわざ発信するほどのものかなあ、という気がする。子規がそれを掲載する媒体を持っていた、ということがとても不思議だ。今のブログと違って、メディアを持つということがとても特権的であったことを考えると、正岡子規という人がなぜそんな特権的立場にいることができたのか、非常に興味深い。

もう一つ、私は短歌の方面から彼の著作を読む機会が多かったのだけれど、彼の本領はやはり俳句のほうだったのではないか、という気がした。「歌よみに与うる書」は言いがかりっぽいところがあるけれど、「俳句問答」や「古池の句の弁」には説得力がある。添削も面白い。
ただ、近世と近代で作風が大きく変化したのは、俳句より短歌だったのではないか。俳句は芭蕉や蕪村がすでに近代の句と変わらない佳作を作っていて、子規はそれらを評価し、引き継いでいる。一方で短歌は、近世にあまり佳作がなく、近代にはいって、アララギや明星など、近世と大きく作風を変えた作品が生まれ、現代へとつないでいった。子規のなんだか言いがかりっぽいような荒々しい理論が、かえって短歌の近世とのつながりを断ち切り、展開する原動力の一つになったのかもしれない。

そしてもうひとつ。子規が短歌や俳句を通して「写生」や「客観」を熱心に主張しているのを読みながら、ふと、先日読んだ寺田寅彦や、文学者ではないが内村鑑三の「実験」(現代の言葉で言えば実体験)などの理論を思い出していた。
「写生」や「客観」は子規のオリジナルではなく、西洋文化に触れた明治の日本の流行だったのかもしれない。

さて、ちくま日本文学40巻を振り返ってみると、時代もまちまち、分野も、当然表現もまちまちで、一貫して言えることは一つもないように思う。
ざっと振り返って印象深かったのは、尾崎翠宮本常一菊池寛岡本綺堂岡本かの子といったところ。読みつけていない作品のほうが、印象が強い。一方で、三島由紀夫樋口一葉林芙美子石川啄木正岡子規など、かつて読んだことがある作品や作家でも、久しぶりに読んでみるとかつてと印象が違うものがあって、自分の変化を感じ取らずにはいられないものもあった。
さて、読み終えた40巻、どうするかなあ。古本屋に売らず、また20年くらいしたら、読み返してみるか。