『中世尼僧 愛の果てに ーー『とはずがたり』の世界』(日下力)

とはずがたり」の読みやすい解説書はないかと探していて行き当たったのが本書。くさか先生、軍記ものの専門家だと思っていたので、ちょっと意外でした。
とはずがたり」はそのスキャンダラスな内容に引きずられて、作品の本質が誤解されているのではないか、作者は本当に、後深草院をはじめとする当時の宮廷の「倒錯的」な性愛を描こうとしたのか、という問題提起から、徐々にときほぐして、たしかに私が感じた「きもちわるい〜」という感覚を薄めてくれたように思う。
父親の、「ただ世を捨ててのちは、いかなるわざも苦しからぬ事なり」という遺言は、「出家したら、どんな異性交際をしてもいいよ」という意味ではなく、「遊女にならず、出家するという形で生き抜きなさい」という意味だ、という解釈は、なるほど前後の文脈としても、不自然ではない。
また、ずっと気にかかっていた、二条が出産8日後に有明の月とまじわって、即妊娠する、という展開、まだ排卵しとらんだろー、と内心気色悪く思っていたのだが、日下先生は、ここにはフィクションがまじえてあるということ、つまり「作者にしてみれば、通常では考えられないことが起こったということを伝えたかったのにすぎまい。宿命として負わされた関係ゆえにありえたことだったと言いたかったのではないか。尋常ではない妊娠を書くことがあくまでも目的だったのであり、事実かどうかよりも、作者の意図、思いを理解すべきであろう。」という。そうすると、全編あちこちに、じつは事実と異なる部分が潜んでいるのかもしれない。
一方で、なんとなく納得いかないところもある。
ひとつには、後深草院を「いわば超能力的な性格を持った人物として、院を継承しようとする志向性が作者にはあり、最終的には那智で見た夢中の姿に収斂されていく。」という指摘で、その一つ一つは、nikkouには、たんなる当てつけや、嫌がらせにしか見えない。描かれた人格は、一貫性を持ったものというよりは、むらむらぎらぎらしていた男が、だんだん老けて行って、いろいろあったけどみんな怨讐の彼方、という話として読んだ方が、無理がない気がする。
もうひとつ、二条の執筆の動機が、後深草院の娘、遊義門院に読ませたかった、つまり彰子と紫式部、定子と清少納言のように、宮廷のサロンを想定していたのではないか、という点も、そうかなあ、という気がした。娘は、この作品を読んで面白いと思うかなあ。遊義門院の母、東二条院はうるさいばばあ、父の後深草院は、超能力を持っていたとしても、女好きの変態。そんな話、読みたかないよ。読者に宮廷が想定されている、ということには、まあ消去法的にもあり得なくはないけれど、具体的な読者は、遊義門院ではないような気がする。