『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』(古市憲寿)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)

なーんとなく不愉快な気持ちになる。ピースボートに乗る若者にも年配者にも、筆者にも、筆者の結論にも、そして、本田由紀のあとがきにも。なぜなのか、よくわからないけれど。
ピースボート」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは辻元清美、である。だから、サヨッキーなグループなんだろうな、という先入観もある(夫に「ピースボートって知ってる?」と聞くと、「辻元清美の? ポスターが共産党のポスターなんかと一緒に貼ってあるイメージ」と言った)。でも、そのイメージはもう古い。年配の参加者ですら、手軽に世界一周できる船、としか認識していない。そして、9条ダンスなるものにわずかに過去のなごりがあるものの、それは「承認の共同体」のためのアイテムでしかない。観光時間はほとんどなく、世界は参加者の背景でしかない。濃密な船内の人間関係があり、しかし、それは管理された「平和」のなかに築かれたものであったりする。
きもっ、と思う。
そうやって、何かをあきらめて、大人になるんだよー、という筆者の結論も、えー、なんか不気味ー、と思うし、本田由紀の「それじゃあ、若者は搾取されっぱなしだよー」という反論も、なんとなく納得がいかず、私のこのもやもや感はいったいなんなんだろう。

本筋とは関係ないけれど、筆者が社会学者の枕詞におもわず吹いてしまう。「イケメン政治学者の萱野稔人」とか「文学少年的な風貌を維持する社会学者の北田暁大」とか「キャンパスではよく学生に間違われる社会学者の小熊英二」とか。私は日本文学(しかも古典)が専攻だったのに、こんなに社会学者の名前や著書や風貌にまでそれなりの知識を身につけてしまうほど、現代の高校国語の教材は社会学者の文章に偏っているんだなあと、愕然とする。逆に、日本古典文学の研究者動向にむっちゃうといよ。やばい。中途半端な社会学の知識と、すっかりうすらいだ日本古典文学の知識。これじゃあ、40代の編集者人生、ほとんど武器のない状況なんじゃないかろうか。勉強しなきゃ。