『万葉集』(日本の古典をよむ4)

万葉集 (日本の古典をよむ 4)

万葉集 (日本の古典をよむ 4)

『日本の古典をよむ』シリーズを第一巻から毎月1冊ずつ読むことにしてから、これで4冊目。やはり、日本の古典を古いほうから読んで行くというのは、意味があるなあ、とつくづく思ったのが、この1冊でした。
というのも、『古事記』や『日本書紀』に出てくる人物の歌が、次々出てくる。もちろん、編纂の過程で創作されたり、人物に仮託されているということは理解しているけれど、それでもやはり、それぞれの人物の記紀とは違う一側面を見ているようなわくわく感は否めなかった。
このシリーズは、全文収録ではないので、万葉集に関しては、全20巻より数首ずつ抽出し、各巻の冒頭に、その巻の構成を解説している。本当にいまさらながら、はじめて知ったのだが、とにかく、「柿本人麻呂」がむちゃくちゃ重用されている。本書の解説によると、人麻呂歌集は当時の歌の「規範」と考えられていたという。家持の収録数が多いことは覚えていたが、人麻呂ってそんなに大物だったの?
万葉の歌には、いくつか、茂吉や赤彦の歌集に入っていても違和感がなさそうなものがある。たとえばこんな歌。

旅にして もの恋しきに 山下の 赤のそほ船 沖を漕ぐ見ゆ 高市黒人
(旅に出て、そぞろ家が恋しい時、先ほど山裾にいた 朱塗りの船が 沖の辺りを漕いで行くのが見える)
朝床に聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱う舟人 大伴家持
(朝床で 聞くと遥かに聞こえてくる 射水川を朝漕ぎながら歌う舟人の声が)

アララギの人たちが、いかに万葉の歌を学び我がものとしたかが、つくづくわかる。
そしてもう一つ。相聞が面白い。アララギの人たちがいまいち、ものに出来なかったのが、フィクションとしての恋歌ではないかと思う。近世以降、短歌=私小説になってしまったので、赤裸裸な恋歌は、明星派の専売になってしまったのだろうけれど、万葉の恋歌は、ストレートでドラマチックだ。フィクションだという共通認識が、享受する側にもあったから、そんな素敵な恋歌が生まれたのだろう。

道の辺の 草深百合の 花笑みに 笑みしがからに 妻と言ふべしや 作者不詳
(道ばたの草深百合の花のように 微笑んだくらいのことで 妻と言ってしまっていいの)

これなんか、俵万智の「嫁さんになれよだなんて缶チューハイ二杯で言ってしまっていいの」のようです(もっと華やかですが)。