『万葉の秀歌』中西進

万葉の秀歌 (ちくま学芸文庫)

万葉の秀歌 (ちくま学芸文庫)

『日本の古典を読む』シリーズで1冊読むと、かならず関連書を読みたくなる。こうしてじっくりじっくり読み進めて行くことが大事なんだろうと思う。
ということで、ちょうどこの7月にちくま学芸文庫に再収録された中西進先生の『万葉の秀歌』を読む。
おもしろいですねー。もう、これは研究書というより、創作のような気がします。文学研究とは、それそのものが文学なんだということに気づかされます。
たとえば、大伴旅人の歌「験(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくもあるらし」(考えたってしかたのないことは考えず、一杯の濁り酒を飲む方がよいらしい)。なんだかしみじみとする歌ですが、中西先生はいう。「鷹揚な歌いぶりのなかに、秘められた悲しみが伝わってくる」。
さらに、大伴坂上郎女「恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言尽くしてよ長くと思はば」(長い間恋い続けてやっと逢えたのなら、せめてそのときだけでもうれしいことばを尽くしてください。この恋を長くとお考えでしたら)。
この歌の中西先生の解釈がすごい。

ここには、愛に、それほどの信頼をおいていない作者がある。しかも「だに」と強調し、「長くと思はば」と結ぶ表現には、生身の愛の体験はつかのまでしかなかった大伴郎女の願いと、それゆえに体験した愛の永続には虚と実が必要だと言う哲学が込められている。
 ほんとうの真実を尽くして傷つけあう愛は本物かもしれない。しかしそれはすぐ壊れてしまう。そんな愛は人生をほんとうには知らない若者の愛である。そこに愛の至福はないことを知ってしまった大人の、哀愁の霧につつまれた愛がこれである。

大人の、哀愁の霧。

「風に散る花橘を袖にうけて君が御跡をしのびつるかも(読み人しらず)」
……昔の恋人といい、落花といい、また風といい、この歌には、今たしかに存在するものは何もない。すべて漠々とした不確かさのなかで、失われた純白なやさしい橘の花弁から追想している一首である。

「あとがき」の中西先生のことばがとてもすばらしかったので、書き留めておく。

私はいま鑑賞ということばを使ったが、じつは鑑賞ということが、世上しばしば虐待されていると私は考えている。なにしろ学問としてこれを認めることに、多くの人が抵抗を示すだろう。そんなのは、素人の思いつきにすぎない、と。なにしろ、むつかしくなければ学問ではないと思う人も多いのだから。
しかし私は反対である。鑑賞をはずしてしまうと、学問はどこにも文学を追及する方向をもつことができないからだ。学問が実証にもとづくものであることはもちろんだから、思いつきが学問でないことはいうまでもない。歌を前にして気持ちがいい、読んでうっとりするなどといっていてもはじまらない。しかし、なぜ、どのように、快いのかを求めることこそが、本当の作品との対話だろう。私にそれができているなどとは、ゆめ思っていないが、すくなくとも万人が、万葉なら万葉で、その確かな手応えを感じつつ作品と対話できたら、これ以上の楽しみはないのではないか、と私は思う。