『嗤う日本の「ナショナリズム」』北田暁大

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

『ネットと愛国』で、ネットウヨクの若者たちが求めているのは承認欲求だ、ということが書いてあったけれど、北田暁大のことばでいえば、それは「つながりの社会性」なのかなあ、と思いつつ読む。承認欲求なんて、いつの時代もあるじゃない、といいたいところだけれど、たぶん現代人の「承認欲求」というのは、「アイロニカルな内輪空間」につながっていたい、そこで共有する「ネタ」を燃料にして「嗤いたい」ということなんだろう。そう考えると、「在特会」なんて、ぴったりはまる。たしかにきもちいいだろうなあ、アイロニカルな内輪空間から嗤う。選民意識?みたいなのが芽生えたりするんだろうか。
ナンシー関について、北田暁大は「1)バラエティ・タレント(無芸なのに、視聴者のリアクションを代行するという役割を与えられたタレント)の跋扈、2)「笑い」の「感動」への転化(「24時間テレビ」とか、オリンピックとか)、3)「ツッこみ」的な視聴スタイルをとることによって1、2を許容してしまう視聴者の「頽落」」という構造を批判しつづけた、という。先日、ナンシー関をはじめて読んで、それで北田のこの指摘を読むと、それって、2002年までのテレビの状況なんじゃないかなあ、と思ったりする。最近あまりテレビを観ないからわからないけれど、バラエティ・タレントはともかく、「感動」への強要は、もう多くの視聴者は辟易しているんじゃないか。たとえばあの「絆」という言葉なんか、どんなにテレビが連呼しようとも、うさんくささが先立ってもうだれもいわなくなってしまった。3・11以後、こんなにテレビが信用されなくなって、今テレビの役割ってなんなんだろう。ナンシー関に教えてもらいたかった。

脱構築」という言葉を与えられる前から、規制の物語にそのままのっかってたまるか(具体的には、一クリスチャンとして、キリスト教の内輪意識を嗤ってやろう、ということ)という思いが自分にずーっとあったのだけど、もしかしたら、それは70年代後半に生まれ、80年代に育った自分には、時代の空気というか、流れに乗っているだけだったのかもしれないなあ、と、ちょっと本文からずれたところで反省しちゃったりして。

ところで、社会学の人の文章って、どうしてこう、独特なんだろうなあ。北田とか宇野常寛とかの文章に傍線をひいて「……とはどのようなことか。」という問題を、最近よく編集する。解答をみると、ものすごーくひらたく言い換えられていたりする。最初っからそういやいいのに、と思うのだけど、なぜ、こんな独特な言い回しをするのかなあ。この本も、いちいち頭の中でひらたく言い換えて読んでいたのだけれど、どうしてもひらたくならず、こういう「読解問題」が得意な高校の国語の先生に聞きに行こうかな、と思った。