『オシムからの旅』木村元彦

オシムからの旅 (よりみちパン!セ)

オシムからの旅 (よりみちパン!セ)

よりみちパン!セ」シリーズはすべて読むことにしている。ヤングアダルト向けの社会問題入門書という新たな分野を開拓したシリーズである。なにかと視野の狭くなりがちな日常にあって、あらたな課題や考えるヒントを見いだすためには、非常に手頃なのだ。

さて、というわけで、まったくサッカーの知識も興味もなくても、オシム(とドラガン・ストイコビッチ)について書かれた本書を手に取る。
サッカー入門書とおもいきや、なんとユーゴスラビアの民族問題について解説した本であった。紙幅の都合もあるのか、全体的に駆け足かつ言葉足らずであるけれど、関心を抱くきっかけとしては上々。以前同僚からもらって本棚の奥につっこんでいた小坂井敏晶『民族という虚構』を本棚の最前列に引っ張りだしてきたもんね。あとで読む。
ひとつ、激しく心をゆさぶられた一節を書き留めておく。

オシム監督が2007年11月に脳梗塞で倒れ、命にもかかわる状況でありながら、家族が快復を信じてきわめて冷静に看病していたことをうけて)
 僕は、その冷静さについて、彼らには一度生き別れたという戦争経験があり、それで精神的に強くなったからだろう、とは書きたくはない。なぜなら、僕がオシムに半生を聞きこんだ中でもっとも感銘をうけたのは、こんな問答だったからだ。
 ーー監督は、目をおおいたくなるような隣人殺しの紛争を乗りこえた。試合中になにが起こっても動じない精神は、そこで身に付いたのではないですか?
「たしかに、そういうところから影響を受けたかもしれないが、言葉にするときは、影響は受けていないといったほうがいいだろう。そういうものから学べたとするなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……。」

 戦争から学んだものがひとつでもあったといったとたん、戦争は必要なものになってしまう、とオシムはいう。僕は、この彼の言葉から、「経験主義」のあやうさを知った。
 経験はその人を成長させることはあるだろう。しかし、その経験を絶対い正しいものだとか、かけがえのない至上のものだと考え始めると、それは安易な「経験主義」となる。理性を介在させずに経験のみをすべてに優先させることは危険なことである。