『外法と愛法の中世』田中貴子

たまたま、山形孝夫氏の『聖母マリア崇拝の謎』(河出ブックス)と並行して読んでいたので、とくに中世の「女性」認識において、東西共通するところがあるような気がして、とても示唆に富む面白い本だった。

吉祥天・弁財天・竜女といった女性神が、中世説話のなかでは、「姉妹」であることによって、「分身」であり、「補完」しあう関係とされること(そういえば、「兄弟」は、カインとアベルにせよ、海彦山彦にせよ、天智天皇天武天皇にせよ、競い合う関係である)、
仏教と国家との結びつきにおいて女性は、玉女や祇園女御のように、性を介して、王権の授与を司る存在とされた、ということ、
そうした「女性」観が、女性を「異形」のものともし、「聖なる存在」にもするが、いずれにせよ、「産む性」に囲い込んで、「男性ヒエラルヒーのなかに固定させる危険性を孕んでいる」ということ。
面白いし、よくわかるけれど、ただ、そのあたりは、中世に特に強く見られるわけでもあるまいなあ、と思いつつ読み進んできて、個人的に、ほほお!と思ったのは、八条院高倉の章。

結婚形態が嫁取り婚へと移行した鎌倉時代では、宮廷女房の場合、夫の家の一員として家庭を築かない限り老年は悲惨なものになってしまう。鎌倉期の宮廷女房は、一見華やかなサロンの住人と見えながら、その実、天皇上皇を頂点とする後宮に囲い込まれ、平安時代のような一種の「自由結婚」の機を得難い状況に置かれていた。そうした中で、運良く天皇の子を生むことができた女性はよいとして、独身者のまま年を重ねた女性は何ら老後の保障もないまま放置された。(209p)

なるほど、そうかー。中古文学について最近ちょっとかじっていたので、これが、現代に至る間に、どんなふうに変化してきたんだろうか、と微妙に気になっていたのでした。今、「今昔物語集」と「宇治拾遺物語」、「とりかえばや物語」を積ん読しているのだけれど、これから、すこし中世文学にひたりたい。その道案内に、田中貴子氏の本を読みあさりたい、と思う。