『流浪の教会 地震 津波 原発事故』佐藤彰

流浪の教会

流浪の教会

最近、すっかり文章を書くのが億劫になっている。いかんな。書かないと、せっかく読みながら感動したことも、すっかり忘れてしまうのにな。
ということで、またコツコツ書き始めたい(と、ブログを立ち上げて何度目になるかわからない決意)。

本書は、福島第一バプテスト教会の牧師による震災の記録。福島第一バプテスト教会の信徒に、福島第一原発爆発で失われた電気回路の復旧作業のリーダーがいる、という情報が流れたのはいつだったか。まだ原発爆発の恐怖さめやらぬ数日後だったかと記憶する。さっそくこの教会のHPをひらき、教会の苦難を知った。夫と相談して、ささやかな寄付を振り込んだのだった。この教会は、原発から20キロ圏内にある。爆発直後、避難勧告に文字通り追い立てられて、故郷をあとにしたという。
高齢者や病気のもの、幼子を抱えつつ、避難所を転々とする人々。新聞やテレビで、被災地の人々の苦労はつぶさに知っているように感じていたが、いかに自分の想像力が浅かったかを思い知らされる。
と同時に、なにか、すさまじく「強い力」が、行間からにじんでくるのを感じる。
この教会の人々が、ではなく、この教会の牧師が、でもない。むしろ、彼らは、正直なまでに普通の人たちだ。「もううれしいのか悲しいのかがわからない状態が、長いこと続いている気がします。」(4月1日)とあるように、苦難に泣き、支援に泣き、再会に泣き、別れに泣き「私たちは、すっかり泣き虫集団になり、涙腺を止めるバルブが折れたままの状態で、いまだ直す人が見当たりません」(3月24日)という状態。
では、この「力強い」印象はどこからわいてくるのか。ひとつは、教会というコミュニティと、教会をとりまく日本中世界中の、「支える」力。もうひとつは、「コリント人への手紙第一10章13節に『あなたがたのあった試練はみな人の知らないものではありません』とあります。いつかだれかが通った道です」(3月29日)とあるように、「希望を失うな、ここは終わりではない」という聖書の「証言」に、リアルに導かれ、立ち上がらされているという事実だ。人は弱い。でも、弱いことは、負けではない。なぜなら、神がともにあるからだ。それが、この地球に間借りさせてもらっている人間が持つべき謙虚さと、希望なんだろう、と思う。

ひとつだけ、気になったこと。
福島第一バプテスト教会の人々は、互いにささえあい、励まし合うコミュニティを持っていた。しかし、コミュニティを持たない人々も、町にはいたことだろう。助けの手が届かない高齢者や障害者、病気の人、子供たちがいたのではないだろうか。教会の人々のささえあいの記録を読むほど、そうした人々を思って胸が痛む。主よ、どうか、あなたの恵みのみ手から、ひとりももれることのないよう、原発被害で苦しむ人々すべてをささえ、はげまし、守ってください。