『紫式部の欲望』酒井順子

紫式部の欲望

紫式部の欲望

源氏物語』を、「負け犬の遠吠え」の著者酒井順子さんが読む、というエッセイ集。
異論反論あるだろうなあ、と思いつつ、nikkou的に、なるほどと思ったところがひとつ。「夕顔」のシーンについて、

男が女を連れ去る話は、既に『伊勢物語』などの中にもあったわけで、それを読んだ紫式部が、少女マンガを読む今の少女のような気持ちを持たなかったとも限らない。素敵な人に突然さらわれてみたいという願望が彼女の中にあったからこそ、それが「夕顔」という形で、源氏物語の中に出てきたのではないかという気がしたのです。

源氏物語』には、いわゆる「類型」と言われるシーンがたくさんある。『伊勢物語』の「芥川」と「夕顔」の類型しかり、「宇治十帖」や「若紫」とやはり『伊勢物語』の「初冠」、「浮舟」と「真間の手児名」伝説、……たぶん、研究書をひもとけば、もっとずらずら出てくるんだろう。そうした類型に、和歌を加えることで、登場人物の(ということは、この時代の男女の)、普通はだれにも明かされない本心が描かれていることが『源氏物語』の特異なところ、というのは橋本治の解釈だったか。
ただ、なぜ「類型」が用いられるのか、ということに関しては、特に意識を向けてこなかった気がする。平安文学とは、そういうものだ、と考えていた。本書の上記の指摘で、はた、と気づいた。「類型」というのは、現代の言葉でいえば、「ベタ」ってことだ。少女マンガや昼ドラ、月九、はては韓流映画に至るまで、「わー、ベタだなあ」というシーンというのは、じつは、その時代の「欲望」なのかもしれない。だから、ちょっとこっぱずかしく、かつ、面白いのかもね。

ちなみにnikkouは、小学校から大学まで、一度も「女子校」に身を投じたことがなく、職場も男性のほうが多いうえに、「中性的」と評されることが多い人間なので、「女房の世界=女子校」という解釈は、いまいちぴんとこず。共学的視点・男社会の視座でも、源氏物語って読み解けるんじゃないかなあ。