『超訳百人一首 うた恋。』杉田圭

超訳百人一首 うた恋い。

超訳百人一首 うた恋い。

超訳百人一首 うた恋い。2

超訳百人一首 うた恋い。2

百人一首の和歌一首一首をストーリー仕立てにした短編漫画集。こりゃまた、大胆な、というのが率直な感想。
行平の「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとしきかば今帰りこむ」は、妻ではなく、「都の人々」への惜別の歌(おそらく、送別会かなんかで詠んだんだろう)のはずだ。「をとめの姿しばしとどめむ」の歌が少女時代の小野小町にむけて詠まれた歌、という解釈も、びっくり。深草少将にはたしかに小町との恋愛伝説があるんだけれど、それをこの歌とからめるとは、なるほどねえ、という思い。ネタ本があるんだろうか。紫式部「めぐりあひて」の歌は、紫式部集の配列から、少女時代に詠まれた歌だろう、という解釈を信じていたが、本書では、『源氏物語』の執筆が話題になったあとの歌、という解釈になっている。
「玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることも弱りもぞする」という式子内親王の歌について、式子内親王と定家の恋愛伝説は確かにあるんだけれど、この歌の相手が定家であるという確証はない。ただ、恋愛禁止の斎宮がこんなにも切ない恋歌を詠む、というのはなにか、想像を掻き立てられるのは事実だ。(ある著者は、この歌は、「私、もうばらすわよ、さもなければ、死ぬわよ」という脅しの歌だ、しかも、それを歌会で披露し、座の人々は、「こわーい」と拍手喝さいした、まったくのフィクションの歌だろう、と言ってましたが。)
ほぼ、詞書や伝説等をもとに構成したフィクションだ。こどもがこれを百人一首の史実だと思ってしまったら、まずかろうなあ。どこかで、「フィクションです」とうたってほしい、と教科書編集者としては、思うのだけど。
ただ、ひとつ、感心したのは、「和歌」と「ストーリー」というのは、親和性が高い、ということをあらためて感じさせられたことだ。「歌物語」というジャンルがあるわけだ。現代でいえば、ドラマのクライマックスシーンでBGMが流れるようなものだろう。ただBGMに使われた「主題歌」が単独でCDになるように、和歌にも、さまざまなストーリーが付与されている。いい和歌は、優れた作家たちにさまざまなフィクションのストーリーをかきたてさせてきた。おそらくこの漫画も、そのひとつなんだと思う。フィクションとしては面白いです。よくできていると思います。ただ、これはフィクションのひとつだ、と理解して、百人一首をまなぶ中高生には、この漫画にとらわれず、自由に想像力をかきたててほしいと思います。