『ドキュメント 高校中退』青砥恭

ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所 (ちくま新書)

ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所 (ちくま新書)

先日、某進学校の研究授業に行って、生徒の「可愛さ」に驚く。言葉遣いも身なりもさわやかで、男の子は威張らないし、女の子にも媚びがない。一見素朴な感じがするくらい。その学校で教えていた先生数人と飲んだときに先生たちいわく「教師がどんな授業をしようとも、彼らは彼らなりに問題を受け取って内面化して、成長していっちゃうんだよなあ」という。思わず「なぜ、あの学校ってそんな子ばかりなんですかねえ」と聞くと「こう言っちゃなんだけど・・・家庭なんだよね。お家のしつけと教育なんだなあ」と言われた。
もちろん、進学校には進学校なりの問題がある。大学進学以外の進路に不寛容だったり、ものすごく「空気を読む」のに気を使う(また長けている)風潮があったり、親の期待が大きい上に、それに素直に従おうとする「いい子」が多かったり。でも、総じてのびやかで、いい学校だったと思う(実は、母校であります)。
本書は、まったく同じ意味でまったく逆だ。父親の暴力や、虐待、貧困などで、教育やしつけどころじゃない。それでもなんとか高校に進学しようとする子供たちに、経済的な事情やら、学校自体勉強できるような環境じゃなかったり、妊娠したり、自暴自棄になったりして、高校中退。中退後の進路は当然高卒よりも厳しく、貧困は連鎖していく、というのが本書のレポートである。
さらに、「学力がない」以前に、10代で厳しい現実にさらされ続けて、「学ぶ意欲」がない、したがって「将来、社会のために働く」という意識ももてないという生徒たち。彼らに「自己責任」というレッテルを貼って放置していたら、日本の未来はない、というのが著者の問題提起である。
ある程度以上の「学力」(言葉で説明したり、会計をしたり、新聞やテレビの情報を鵜呑みにしないで自分で調べたり、知識の取得に喜びを覚えたり、生活に生かしたり)というのは、「個人の身を守る術」になると同時に、「共同体のの安定」や、大きく言えば「社会の平和」に貢献する事だと思う。加藤周一が「知識人の役割」を声高に論じたのを読むにつけ、広い意味での「学力」は、「暴力」に勝つのかもしれないなあ、と思う。
そうすると逆に「学力」のなさや「学ぶ意欲のなさ」は、たしかに「暴力」に餌食にされやすいのかもしれないとも思う。
「学力のない子をなんとかしよう」という社会の共通認識ができて、「学校教育にもっと予算を割きましょう」ということになって、「それで税金があがってもかまわない」というくらいに機運が高まると、めでたしめでたしなんだろうね。
風が吹けば桶屋が儲かる」式で、「教育」からこの日本の「貧困」をなくすという方法は、案外有効かもしれない。
そのために税金があがるのは、自分は構わないとおもっているんだけどね。「税金が本当に教育にちゃんと使われるかどうか、わからないじゃん」と思っている人もいるだろうし、その気持ちはわかる。
ただ、こういう問題において、個人でやれることは、あまりないなあと、ちょっと途方にくれる。