『どんとこい、貧困!』湯浅誠

どんとこい、貧困! (よりみちパン!セ)

どんとこい、貧困! (よりみちパン!セ)

よりみちパン!セ」シリーズには、ときどきガツン!とやられる本があるが、本書は、本当にぶんなぐられた思い、というか、目のさめる一冊でありました。
「自己責任論」と呼ばれる言説に抵抗感を覚えてはいるものの、

「努力しないのが悪いんじゃない?」
「甘やかすのは本人のためにならないんじゃないの?」
「死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?」
「自分だけラクして得してずるいんじゃないの?」
「かわいそうだけど、仕方ないんじゃない?」
(本書「第一章」目次)


等々と実際に言われると、nikkouは、むぐむぐしてしまうしかない。それを、湯浅氏はひらりひらりと論破していくのみならず、「自己責任論に抵抗をおぼえる」と言っているわたし自身が「上から目線」であったことに気づいて、恥ずかしくなってくる。
私には、湯浅氏の言う「溜め」(本人の責任や努力にかかわりなく、与えられている条件や環境)が、たぶん格段に大きい。湯浅氏「溜め」の主な3つは、「精神」「人間関係」「お金」であるが、nikkouには、「精神」に「キリスト教信仰」という相当ハードな状況でも頼りになるセーフティネットがあるし、「人間関係」においては、家族にしても友人にしても、いつも相当大きな「溜め」に助けられている。「お金」に苦労したことは、今まで一度もない。つまり、自分の努力で獲得したのではなく、まったく偶然に、恵まれた環境に生まれたという「溜め」を多く持ちながら、「溜め」の少ない人に対して同情や蔑みのまなざしを持っていたのではないか。
「溜め」の問題なんだから、もう、自己責任とか努力とか結果とか、そんなこと言うのやめようよ、というのが趣旨なわけだが、さて、じゃあ、どうしたらいいんだろう。
もちろん、もう、そういう不毛な論議はやめよう、というのが最初の一歩。
それから、社会の問題に見て見ぬふりをするのはやめよう、というのが二歩め。

見えないことが無視につながり、逆に、関心は尊重につながる。(234ページ)

グリーンハウスというアメリカのジャーナリストの言葉だそうだが、「関心は尊重につながる」というところにはっとさせられる。
では三歩めは?
ふと、主イエスの「天に宝を積め」という言葉を思い出す。主イエスには「宝を地上に積んだって、死んだらもとも子もないし、だいたい、そんなもん、ほっとくと腐っちゃうぜ」というユーモラスかつシニカルなせりふがあるんだけど、その「天」ていうのは、「あなたがたのただ中にある」んだそうだ。
わたしに与えられた「溜め」は、わたしの努力によるものではなく、一方的な恩恵であるともっと切実に理解して、「天」に積んでいく方法を考えるべきなんだろうと思う。