『太宰治』ちくま日本文学008

太宰治 [ちくま日本文学008]

太宰治 [ちくま日本文学008]

おもしろいなあ〜と一作ごとにため息をつきつつ読む。言うまでもないことだけど、希代の短編の名手ですよ、太宰。
「ロマネスク」や「津軽」を読んで噴き出していると、相方から「太宰って、笑えるんだ。暗い話ばかりかと思った」といわれる。「人間失格」や「斜陽」の印象が強いから太宰といえば陰気な作家と思われがちだけれど、本当は、ユーモアとペーソス、その陰にちいさく人生の苦みを潜ませた作品のほうが多い。ファンの多い「満願」など、何度よんでも、胸にあたたかいものがじわーっとしみる。文章がまたうまい。「貧の意地」の最後の段落、

原田は眠そうな顔をして、
「わからん。お酒はもう無いか。」と言った。
落ちぶれても、武士はさすがに違うものだと、女房は可憐に緊張して勝手元へ行きお酒の燗に取りかかる。

という一息の文章には、なんども唸る。
本書は編集もよくて、なかごろに「十二月八日」という開戦当日の主婦の一人称小説、終盤に終戦後の虚無を描いた「トカトントン」や「ヴィヨンの妻」を置いている。「十二月八日」発表の1942年には、私の大好きな「正義と微笑」も書かれている。太宰の筆がもっとも明るかったころだ。終戦の1945年をはさんで1947年には「トカトントン」「斜陽」、そして翌年「人間失格」を書き、入水。最後のほうの、虚無のなかでのあやういバランスと、そのなかで錐でもみこむような人間洞察に、壮絶なまでの作家の才能を感じずにいられない。

太宰は無教会の機関紙を購読、聖書を熟読していたとのことで、「トカトントン」には次の一節がある。

真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止むはずです。

今のnikkouには、この一節の真意はまだ分からない。でも、太宰がこの一節に託そうとした何かを知りたい。
ページをめくって「桜桃」。その冒頭に掲げられた詩篇一二一、

われ、山にむかひて、目を挙ぐ。


という一語に、ぐっとなる。この一節につづくのは「わが助け、いづこより来たるか」である。