『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ 』長谷川泰子・村上護

中原中也との愛 ゆきてかへらぬ (角川ソフィア文庫)

中原中也との愛 ゆきてかへらぬ (角川ソフィア文庫)

文学者と女性たち、というテーマ(?)の第三弾。中原中也と同棲し、のちに小林秀雄のもとに走った長谷川泰子の聞き語り。
寺山修司や、中島らもの場合、個性的な男性作家に尽くす(振り回される?)女性たち、という構図と言えなくもないけれど、中原中也小林秀雄に対する長谷川泰子というのは、まったく逆で、なんだかえらい困った女性に惹かれて惹かれてしょうがない男たち、という様子でありました。
小林秀雄の、「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」というセリフがすごい。「気が合うのだといってくれる小林は、私の望んでいるものを、もしかしたら与えてくれるかもしれない」と長谷川泰子に言わせる魅力があったんだろう。同棲していた中原のもとを、ふっと出てしまう。
長谷川泰子は、今でいう「強迫性障害」(本人の言葉でいうと「潔癖症」)だったようで、今日出海と夜、食事をしていた小林が、ふと語ったという泰子の様子が、どことなく動物的で、妙に壮絶であります。

「あ、俺、早く帰らなきゃあ」
小林はちょっと間を置いて、いいにくそうに、こうつけくわえたそうです。
「俺は、実は女がいるんだ、女がジーッとして待っているんだ」
小林はそういいい置いて、さっさと帰って行ったというんです。あとで今さんと知り合ったとき、私にそのときのことを話して、「女が待ってるんだ、というのまではわかったけど、女がジーッとして待ってるんだ、というのがわからなかった」といっておられました。
私はほんとにジーッと待っておりました。動くと妄想が浮かんできて、たえられなくなるんです。だから、何もしないで、ひとところに坐っておりました。暗くなっても電気もつけません。トイレにも行かないで、ジーッと小林の帰りを待っておりました。

泰子が小林のもとにいったのちも、中原と小林、泰子との関係は続いたそうで、三人居合わせたときの様子もなまなましく告白されている。

私は精神年齢が低かったから、中原になにかいわれると、カーッとなっていました。いつかはレストランで喧嘩になっちゃって、私たちはフォークとナイフでわたり合ったんです。そこで立ち回りがはじまるんですけど、一緒に行っている連中はそれを黙って見ているだけでした。
小林にとって、私たちのそうした喧嘩は、実に不愉快な光景に見えるんでしょう、中原と私が姦淫しているように見える、と小林がいったことがありました。それほど、私たちの立ち回りは馴れたものがありました。

小林は、泰子から逃れるように、断ち切るように、ふっと出て行ってしまったらしい。こんな女性が、小林のような男の保護なしでひとりで生きていけたのかなあ、とおもうのだけれど、そこは「宿命の女(ファム・ファタール)」、中原をはじめ、さまざまな男たちの援助で、生き延びる。あとがきに挿入されている、昭和49年、70歳の泰子の写真は、とても聡明そうに見える。本書で告白されているような天衣無縫な様子はなく、不思議な気がする。
泰子の告白の合間合間に挿入されている中原中也の詩は、やはりすばらしくて、背後に泰子の面影があるのだろうけれど、文学ってのはすごいものだなあ、そういう個別性というか、生臭さを、人間の本質的なものへ、昇華するんだなあ、と改めて思う。