『寺山修司と生きて』田中未知

寺山修司と生きて

寺山修司と生きて

ちくま日文で『寺山修司』を読んだあと、ふと、本書を思い出す。かつて鴻上尚史が紹介していた本だ。著者の田中未知は、寺山修司の秘書だった人。
鴻上尚史は、田中未知が、寺山修司が死ぬ直前に、寺山修司が愛した女たちを集めて身の回りの世話をさせたことについて、

ふつうの女性には、このような私の態度は理解しがたいだろう。
けれど、自分が愛する人間を純粋に愛する人びとのことなら、私は愛せる。
愛する人間をめぐってライバル意識をむき出しにすることのほうが、私には理解できない。

と書いたことに感銘をうけ、ここまで女性たちに愛される寺山修司とは奇特な人だ、というようなニュアンスのことを書いていたような記憶がある。だからnikkouは、田中未知は、九条映子の次の奥さんなのかな、と勝手に思っていた。でも、本書を読む限り、どうもそうではないみたい。本当に、純粋に秘書さんだったようだ。
nikkouは、寺山修司が生きて活躍していたころを知らないので、作品でしか、イメージを持つことも、評価をすることもできない。だから、天井桟敷の裏話や、晩年にひどい医者に罹ってしまったこと、その後出された寺山の伝記が偏見に満ちたものだ、という田中未知の怒りについては、あまり興味が持てなかった。ただ、寺山の作品に繰り返し繰り返し出てくる「母」は、いったい何者なんだろう、という好奇心はすごーくあったので、本書に描かれた寺山の実母「寺山はつ」という人の奇矯ぶりは、すごく面白かった。
作品が残る、というのは、そういうことだと思う。つまり、作品しか知らない人が世界に増えてきて、作品を通じてしか、作家と出会えなくなる。そうすると、作家が生きていたときの人間関係のさまざまな軋轢や葛藤は、だんだんそぎ落とされていって、作品から作家が評価されるようになる。
nikkouは、作品に「母」があったから、「寺山はつ」を面白く感じたけれど、作品に「医者」や「伝記」は出てこないから、「ああ、そんなことがあったの、ふーん」という程度。
藤田嗣治と同じだ。藤田もだんだん、その作品だけで、評価されるようになるだろう。
「作品至上主義」なんて、揶揄するように言う人がいると思うけど、nikkouは、「作品」が最重要、という考え方は正しいと思うよ。じゃないと、作品以外知らない人は、作家と永遠に出会えないことになっちゃうじゃないか。