『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』今枝仁

なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか

なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか

そろそろ光市にこだわるのはやめにしよう、とおもいつつ、『君はなぜ絶望と闘えたのか』のあとがきに書かれた加害少年の発言が気になって、もう一冊、読んでしまう。
本書は加害少年の弁護士の立場から書かれているので、もうすこし加害少年の発言の意図について踏み込んで書いてある。

本書を読んでnikkouが感じたことをものすごーくざっくりまとめると、この加害少年は、ちょっとオカシイらしい。オカシイ人に死刑を適応するか否か、というのはまた別の話になってしまうので、ひとまず置いておく。
この少年がオカシイ、ということが分かったのは、被害者の本村さんが「無期懲役は納得がいかない、死刑にしてほしい」と主張したことで事件がクローズアップされ、弁護士団が結成され、少年の発言を丁寧に見直した結果ではないかとおもう。そうでなければ、当初の検察が作成した一見「つじつま」があった調書と、弁護士に促されて「反省しています」というポーズを、納得のいっていない加害少年が見せることと、「殺害したのは2人なので無期懲役」というルールにしたがって、「無期懲役」という判決が、自動的に決まっていた、ということになる。

少年が「オカシイ」人になってしまった原因を、今枝氏は、父親の壮絶な虐待とDVに見ている。この父親は地元のエリート企業に勤める人だそうで、少年には弟が二人と、実母がDVに耐えかねて自殺した後に父親と再婚した義母がいるそうだ。

さて、今のところでnikkouが考えたことをまとめると、「あなたは、ちょっとオカシイ」「あなたが見ている世界は歪んでいる。」と、裁判を通して指摘してもらえたのは、この少年にとって、「救い」だったのではないかと思わずにいられない。たとえ死刑になったとしても、「歪み」に気付き、残りの生涯を、歪んでいない見方、父親の虐待に縛られないものの考え方で、世界をとらえることができるのなら、たとえ短い期間であっても、幸いだと思う。もちろん、この少年とはまったく関係のない本村さんの御家族を殺害することで、その「歪み」に気付くことができた、というのは、あまりにも辛い話ではあるけれど。

それから、もし、本書に書かれていることが事実だとしたら、この事件で、「救い」のない人が、あと4人いる、と思った。
ひとりは、少年の父親である。父親は事件後、少年と絶縁関係にあるそうで、もし、この事件を通じて、自分の暴力的なありかたは、「オカシイ」のではないだろうか、と気付かないままだとしたら、一生、暴力的な生き方をし続けることになる。
さらに、二人の弟と、少年の義母は、いまなお、この父親のDVの危険にさらされているかもしれない。少年の弟たちは今なお、暴力でゆがめられたままのものの見方をしているかもしれない。この家族の救いを祈らずにはいられない。

光市関係の本を読んで、もっとも強く感じたことは、「裁判の目的は、量刑ではないんじゃないか」ということだ。「死刑」についてどう考えるかは、まだはっきりと結論が出ていないけれど、ただ、問題は「死刑」じゃない、というような気がしてきた。
ではもっとも大切なのは何かというと、「被告」に、「あなたは、何者ですか?」と問うことじゃなかろうか、と思う。
「この事件を起こしたのは、あなたなのですか?」「あなたは、何をしたのですか?」「あなたは、なぜ、そんなことをしたのですか?」…つまり、「あなたは、何者ですか」と問うこと。その解明に、すべての立場の人が全力を尽くすこと。結論として、「何者であるか」が解明されたら、その結論をもとに、その事件で生じてしまった「歪み」を修正すること。
「死刑」か「無期懲役」か、に話がフォーカスしてしまうと、加害者も被害者も、その周辺のひとも、だーれも救われない。

ちなみに、「救い」…という言葉が脳裏に浮かんだのは、本書が初めてだった。
そういえば、一年ほどまえ、今枝氏がカトリックで受洗したという週刊誌の記事を見た。この記事の著者がしょーもないほどあんぽんたんで(「クリスチャンになるなんて、なんて心の弱い人なんだ、とんだ弁護士がいたもんだ」みたいな、そんな記事。)、思い出しても腹が立つけれど、でも、今枝さんにとっては、よかったなあ、「救い」と「裁判」って、近いところにあるよなあと思った。