『死刑』森達也

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

『若者を見殺しにする国』で森達也が出て来たので、ふと積読してあった本書を思い出して読んでみる。
死刑について、存置か廃止かはともかく、まず目をむけよう、というスタンスからスタートしていくルポルタージュ。折しも裁判員制度が始まった。読む前にnikkouは死刑について、微妙に存置派、と思っていた。読み終わっても、やはり微妙に存置派かなあ、という気がするが、ちょっと内実が違う。
本書のなかで、森山真弓法相の「日本には死んでお詫びをする文化がある」というセリフが紹介されている(177ページ)。一方で、死刑制度の本質は「規範意識」だ、という森達也の主張のところには、こんなことを書いている。

この絶対的な価値や規範は、死への恐れを中和する機能を持つ宗教と親和性が高い。一致することも多い。『汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」(マタイ伝福音書5・449とイエスが山の上で述べたキリスト教文化圏において(アメリカが例外的な位置にある理由は今は省く)、死刑廃止が比較的容易に実現できた理由のひとつはここにある。そしてこれは論理ではない。(242ページ)

とすると。「死んでお詫びをする文化がある」日本人であり、かつ、「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」を規範とするキリスト教徒である私は、どうしたらいいのかしら。

想像してみよ、と森達也が何度も言うので、想像してみた。
nikkouの親や妹たちが、もし、何者かに殺されたら。……死刑を要求するね。間違いなく。死刑では軽い、恐怖に撃ちふるえる思いをさせたい。更生も謝罪も不要。われわれ小さな家族はこれまでにも不慮の事故や病いで一人減り二人失われ、そのダメージたるや未だに覆い尽くせるものではなく、せめて残されたメンバーだけは年齢順に逝こう、と互いにさりげなく横目で気を配りつつ生きてきた。まだわれらの内に、枝葉の一本も伸びていないうちに、さらなるメンバーが暴力的に失われるなど許されるはずもない。死んで詫びよ、…じゃあないな、詫びはいらないから、死んでちょうだい、である。
ところが、夫が何者かに殺されたら、と考えて、ふと、迷った。死刑を要求するのは、この場合そぐわないなあ、と思ったのだ。夫の命と引き換えに犯人の死刑を要求しては、なんだか、バチが当たる、と瞬間的に思った。ではどうするんだろう。きっと、血反吐を飲んで、奥歯も砕かれんばかりに食いしばって、「赦し」を自分に課すだろう、と思った。それも、「赦そう」と心に思うばかりではない。夫の葬式に犯人の家族を招き、犯人に遺児がいればひきとって育て、犯人が少年であれば奨学金を申し出て就職先まで気を配り、それを苦痛に思えばそう思うわが身を赦したまえと祈るしかないだろう、と。
ま、実際はわかんないけどね。やっぱり夫が殺されるようなことがあったら、どうか死刑にしてください、というかもしれない。
しかし、想像の中で二つの家庭の構成員に対する感覚は全然違った。なぜ違うのだろう。夫とは、ある程度の理性や知性が備わってから家庭を築いたので、不幸の際にも理性や知性が働くのかもしれない。くらべると親姉妹には、感情が露骨になるのかもしれない。
あるいは、わたしが与えられた二つの家庭それぞれの、文化、といって軽ければ、価値観の問題かもしれない。
どちらかというと「死んでお詫び」の価値観のわが実家と、アーミッシュの村での児童射殺事件でのアーミッシュたちの行動を調べ、まるで見てきたかのようにつぶさに語るわが夫と。

そこまで考えて、「死刑」を一般的な状況に当てはめて考えるのは無理だなあ、と思った。わたし一人でも、相手によって死刑を要求するか否か分かれるのに、一般的に死刑をどうすべきかなんて、決められない。

本書で、カトリック教誨師がインタビューに応じている。死刑囚に福音を説き、泣いて、祈って、抱きしめて送り出す苦悩。つらい仕事をしている人がいるんだなあ、とおもう。


「もしね、もしイエス・キリストが執行のその場にいたとしたら、キリストは何て言うと思いますか」
(中略)
「……暴れるかもしれないね」
「暴れる?」
 思わず聞き返しながら、刑場で暴れるイエス・キリストのイメージが脳裏に浮かぶ。突然降臨してきたイエスは、「いい加減にしろバカヤロウ!」などと叫びながら、絞首用のロープを引きちぎり、ガラスを割って検察官や拘置所長の胸ぐらを掴んでその場に引き倒し、祭壇をけ散らかし、「怒るぞホントに!」などと叫んでいる。
 そのイメージはTにも感染したのだろうか。少しだけTは笑う。ただし満面の笑みではない。困惑したよな片頬だけの笑み。
「……暴れるかどうかはわからないけれど、やめなさいって言うでしょうね。……僕はね、できることなら教誨師をやめたい。本当にそう思う。」
(中略)
「……最後の最後まで生きる望みや希望を持ってほしい、前向きになってほしい、そう思っています。」
「最後の最後まで生きる望みって……」
 僕は思わずTの言葉を繰り返した。一瞬だけフリーズしたTが、数秒後にああそうかというように小さくうなずいた。
「……そうだよね。矛盾です。」 口もとには微かな笑みがある。でももちろん明朗な笑みではない。とても苦しそうな笑み。その笑顔はいつのまにか泣き顔に溶ける。何の脈絡もなく涙が溢れてくることがあると言ったけれど、たぶんそのときのTは、こんな表情をしているのだろうとふと思う。

そこで、あらためて気付いた。イエスは、死刑囚であった。