『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か』赤木智弘

若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

nikkouが編集にかかわっている教科書には丸山真男の「『である』ことと『する』こと」という評論が載っている。現在の高校2年生の教科書ではほぼ半数に載っている定番中の定番教材だ。nikkouも高校生のときに読んだ。nikkouの8歳年上の友人が、高校生のときに教科書で読んであまりに面白かったから元本の『日本の思想』(岩波新書)を買って読んだ、と言っていたので、かれこれ25年は掲載されている現代文のなかの古典といってもいい教材だろう。「昨年度の教科書のなかでよかった教材はなんですか」というアンケートを教員に取ると、毎年、評論の中ではダントツ・トップにあがる人気教材でもある。

昨年度のアンケートでも、トップになった。ただ、1通だけ、気になる回答があった。「『「である」ことと「する」こと』は、権利ばかりで義務に触れていないので、よくない。」と回答した先生がいたのだ。「次回の改訂では、はずしたほうがいい」ともある。
営業的に人気教材をはずすわけにはいかない、という点はひとまずおいといて、「権利ばかりで義務に触れていない」という主張に、首をかしげた。
この評論は、タイトルにもあるように、“世の中には「である」ことと、「する」ことがあるよ”というのがテーマである。“近世までは、身分とか家柄とか血筋とか、そういう「である」ことが、役割や職業という「する」ことと密接に結びついていたけれど、近代以降、「する」ことは、本当にその役割や職業を「する」ことで担うしかなくなったんだよ”というのが前半部分。後半部分に、“ただし、近代以降も「である」ことを尊重しなければならない領域があって、「休暇」を「レジャーすること」にしちゃいけないし、学問や芸術なども、経済活動に飲み込まれてはいけない”てなことを言う。
「権利」と「義務」の話は、どこにもない。あえて言えば、評論の枕のところに「権利の上に眠るものはこれを保護せず」という民法の考え方が紹介されているけれど、これは「権利を「であること」と勘違いすると痛い目にあうから、きちんと理性と知性と感性を研ぎ澄ましていなさい」という近代の社会のしくみを説明する話の前振りであったりする。どうして「義務」と対になるのか、まったく分からない。

で、はたと、思い出したのであります。ちょっと前に、「『丸山真男』をひっぱたきたい」という評論が話題になったっけ。まだ読んでいないけれど、ひょっとして、この先生は、あの評論に影響されたのじゃなかろうか。
というわけで、さっそく丸善に行って買ってきました。
赤木智弘とまったく同年代のnikkouにとって、共感できるところもあれば、いやー、そういう括り方は乱暴だろう、というところもあって、それなりに面白かったのだけど、とりあえず、目的は「丸山真男」。結論からいうと、「丸山真男をひっぱたきたい」というのはレトリックであって、「『である』ことと『する』こと」とは、まったく関係なかった。いや、むしろ、赤木智弘が国語の先生で、丸山真男を授業で扱いながら「しかし、おまえら、世の中全然平等じゃないからなー。丸山真男なんて、東大出のエリートで、おまえらには逆立ちしてもかなわない可能性があるんだぜー。じゃーどうすればいいのかって?先生にはわかんねーや。戦争になって、丸山と同じ一兵卒で、お前らがちょっと年上だったら、ひっぱたけるんじゃねーの。まあ、あとはお前らで考えな」みたいなことを言ったら、むしろ気骨(?)があって面白いんじゃないか、と思うほどだ。

たぶん、この先生は、赤木智弘は読んでいない。たぶん、『日本の思想』も読んでいない。ああ、どんな授業をしちゃったのかなあ。生徒さんたちは「あまりに面白いんで『日本の思想』を読んだ」ということも、将来『忠誠と反逆』や『文明論之概略を読む』を読みたいと思うことも、小熊英二の『民主と愛国』を面白いと感じることも(nikkouは読みかけ)ないんだろうなあ。いや、べつに高校生全員がそういう大人になってほしいとは思わないけれど、国語の先生だけは、ある程度の水準を持っていてほしいと、アンケートを前にして、泣きたくなるような思いです。