「自殺するなら、引きこもれ―問題だらけの学校から身を守る法」本田透・堀田純司

…というタイトルですが、「引きこもり」ではなく「不登校」の話でした。

>>(本書は)「学校に行って死ぬ人はいるが、学校に行かないために死ぬ人はいない」という逆転した発想から、学校で追いつめられた生徒やその親に「我慢して学校に通って死ぬくらいなら、いったん引きこもれ。不登校という形で自分の命を守れ」という緊急回避方法を提案するものです。(「プロローグ」より)<<

という主張を、「学校」というものの歴史や社会の仕組みなど解説しながら肉づけしている。たしかに、おっしゃる通りだとは思う。ただ、なんとなく、著者はふたりとも、とっても強い人なんじゃないかなあ、という印象を持った。著者たちは「引きこもりであった」「不登校であった」というが、よく読んでみると、高校中退するという形での「不登校」であり、「引きこもり」の間は、哲学書を読みあさったり、大検の試験勉強をしたりしている。まさに「不登校」と「引きこもり」を「選んだ」人たち、という感じ。
同じく当事者の側から書いた『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(貴戸理恵常野雄次郎)では、「いじめがあったわけでも、勉強ができなかったわけでもなく、ただ、学校に行きたくなかった。『不登校を選んだ』というのは、大人の理論だ、自分は『選んだ』わけじゃなく、どうしようもなく、いけなかったんだ」という貴戸さんの、じだんだを踏むような主張が滲んでいて、胸をえぐられた。小学校の「不登校」と、高校の「不登校」の違いだろうか。

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

さらに本書では、アップル社を設立したスティーブ・ジョブズなどが、「引きこもり」をして成功した例として取り上げられているけれど、企業に就職せずにクリエーティブなことを一生懸命考えて、それによって成功している、ということを「引きこもり」と呼んでいいのかなあ、と思う。ただ途方にくれて、時間が止まってしまったかのように、立ち尽くしている人っていうのは、この著者たちからはどう見えるのだろう。