『源氏物語 九つの変奏』

松浦理恵子、江國香織角田光代町田康金原ひとみ島田雅彦日和聡子桐野夏生小池昌代の9人が、源氏物語をモチーフあるいは軸に書いた短編小説集。作家としてはどうなんだろう、同テーマで他の作家と競わされるようでやりにくかったりするんだろうか。

個人的には、桐野夏生が描く女三宮と、小池昌代が描く浮舟が圧巻で、江國香織の夕顔、松浦理恵子の描く空蝉も、なるほどなあ、と感じた。角田光代は趣向をかえて現代の東南アジアあたりを舞台に、少女が男に連れ去られ、かしづかれる、という設定を紫の上に準じているのだけれど、これも、なかなかリアルでした。
面白いのは、いずれの女性も、「自分でこの人生を選んだ」と言い切るところだ。女三宮はみずから柏木に姿を見せるために猫に細工をしたことになっているし、浮舟も、匂宮に自覚的に身をゆだねている。夕顔が名前を教えない、空蝉が源氏を拒む、というのは原作にもあるが、それをより強調的に描いているようだった。徹底的に受け身のヒロインでは、やはり現代小説になりえないんだろうなあ。

島田雅彦日和聡子はこれまで作品を読んだことがないのだけれど、小学館の全集の現代語訳を読むようで、いまいち面白くなかった。
金原ひとみは「光」「葵」という夫婦の名前が一致しているだけで、特に源氏物語に即しているわけではないが、それはそれで面白かった。電車の中でこの作品を読んでいて、ふと思い立って途中下車し、書店で金原ひとみの最新刊「マザーズ」を買ってきてしまったくらい。

町田康は、すごく好き。たしかにストーリーとしては、源氏の「やっちまった」感がよく出ていて面白かったけど、それよりも、この言語感覚がいいな。以前、古事記のヒトコトヌシノミコトを使った小説(なんだったかな)で、ヒトコトヌシが「森ビル」と言ったとたん、森ビルが出現する、というシーンを読んで、この作家は天才じゃなかろうか、と思ったが、この作品でも、末摘花を(紅花から転じて)「ベニー」と呼ぶところに、同じ言語感覚を見た。

全体を通して、『源氏物語』というのは、女の物語なんだなあ、ということがひしひしと感じられた。ヒロインたちはみな、生臭いほどリアルなのに、軸となる光源氏は、どの作品を読んでも、存在感が希薄だ。町田康は源氏の一人称なのに、ただのバカみたいだし。酒井順子が『紫式部の欲望』で書いていたように、女のひとつひとつの欲望を、ひとりの男がすべてかなえる、という趣向で描かれた物語なのかもしれない。女の場合は、欲望ひとつに、女一人だけれど、欲望をかなえるほうの男、つまり光源氏はひとりなもんだから、ありえない人物になってしまったのかもしれないね。