『現象学入門』竹田青嗣

現象学入門 (NHKブックス)

現象学入門 (NHKブックス)

全体的に「よくわかった!」とは、とてもとても言えないけれど、時々はっとすることが多々あり。
特におもしろかったのが、「近代の合理主義的世界観はガリレイの測定術に端を発する」(P113)というくだり。世界中の空間と時間が一定の数値で測量できるようになったことで、魔物や妖精の棲む森という「空間」も、霊的なものがざわめきだす夜という「時間」も、日常生活の「空間」や昼の「時間」と「均質な数値」で測れてしまう。それ以来、人間には「一切の自然の客観的把握の可能性」という概念が生まれたのだそうだ。でも、どこまで人間は世界を「客観的」に測れるというのだろう。数値化できないものは、存在しないというのだろうか。そこからフッサールの問題提起が始まる。そもそも「主観」と「客観」という枠組みを取り払ってしまおう、世界に「客観的真実」なんてないんだ、ということからスタートしよう、というのだ。
「主観」と「客観」という枠組みはすでに私の脳味噌の深く根付いてしまっているので、そこからフリーになるにはちょっとした慣れが必要な気がする。でも、一度感覚としてつかむと、なんていうのかな、「人間として生きている」という感じがする。自分は「もともと客観的真実がある世界に生まれ落ちた無力で無知な動物」ではなく、「人間」としてーnikkouの場合、具体的には日本語を使って世界を理解したり、nikkouの生活する環境のなかで経験を重ねたりして、世界を自分のなかで作り上げてきたんだ、ということだ。ということは、他者もその人なりの環境の中で世界を作り上げてきているのであって、どちらかが「客観的真実」を知っている、というのではなく、お互い作り上げてきた世界の中で共通の部分があるかどうかさぐり合って、それはどのように作り上げられてきたのかたどってみましょう、というのが「現象学」なのかな、と理解した。
ちなみに、石川輝吉「カント 信じるための哲学」を先に読んでいたので、なんとなくカントとフッサールがごっちゃになってしまう。というか、そもそもそれぞれいつの時代の人かもわからないで読み進めてしまった。時代背景も含めて、体系的に哲学の概要を知りたいなあと思う。