『鳥の物語』中勘助

鳥の物語 (岩波文庫 緑 51-2)

鳥の物語 (岩波文庫 緑 51-2)

最近周辺で「鳥の物語」が好きだ、という声を二人以上から聞いたので、積読してあったのを引っ張り出して読んでみる。
いやー、これはnikkouは嫌いだなー。苦痛でしかたなかった。「銀の匙」のほうが、はるかにはるかに名作だよ。
もちろん、文章は流麗で、オノマトペや韻文の使い方は見事。でも、物の見方がnikkouの見方と大きく隔たっていて、あまりに耐えがたい。
おそらく、時代的制約が強すぎるんだと思う。つまり、天皇制とか、家父長制とか、そういう社会的価値観にどっぷりつかった視線から描かれた小説のような気がするのだ。だから、鳥たちが語るのに、視野が鳥瞰的じゃなくって、地べた的。
鳥から見たら、人間世界の権威などなきに等しいものであってほしい、というのがnikkouの価値観なのだけど、「鳥の物語」では、

「わしは中郎将の蘇武という者じゃ」
「クワーッ」
雁たちは一斉に平伏した。
(雁の話)


聖徳太子からイカルたちへ)
「いわばおまえがたが天から授かった領地のようなもの、そこへ宮がたてたいと無理を頼むのじゃ」
「御宮ができませばこれほど嬉しいことはございません」
(いかるの話)


近ぢかにこの和歌の浦へみかどがおいでになるという噂が伝わってきた。

「おい、きいたか。本当らしいぞ」
「本当ならどうずる」
「いくら私らが長生きだってそう度たびあることじゃない。まあ運よく居合わせたというものだ。出立をのばそうじゃないか」
(鶴の話)

などなど、人間社会で「尊い」とされているものは、鳥にとっても無条件に尊ばれていたりする。
だから、イエス・キリストに題材をとった「鳩の話」は、人間社会の権威に立ち向かおうとするイエスに、鳩が「若い身そらでわざわざあぶないめにあうにゃあたらないよ」と忠告し、創世記に題材をとった「鷹の話」にいたっては、なんとヨセフがエジプトの国家神「ラー」に改宗してしまったりする。旧約聖書に流れる、国家や民族を超越してひとりの人間にひたーっとつきしたがってくるエホバの視点のダイナミズムは、この物語にはない。
「お言葉どおり御国のために命をすてて海の底へ玉をとりにまいります」(鵜の話)という那古のせりふも、刊行当時の人たちには違和感はなかったんだろうが、今の日本に生きる一女子としては、「いやだなあ、旦那に『国のために命を捨ててくれ』なんていわれたら、亡命しようって言うよなあ」と思ってしまう。
天皇制とか、国家とかを、無邪気に信じられる時代の人の物語なんじゃないか、とおもう。