『恋愛偏愛美術館』(西岡文彦)

恋愛偏愛美術館 (新潮文庫)

恋愛偏愛美術館 (新潮文庫)

本論にはあまり関係ないのだけれど、文章にちょいちょいダブりがある。それも1行2行の繰り返しではなく、ワンパラグラフとか、だいたい同じようなことを数段落繰り返すとか。連載ものに手入れをせず文庫化したのかな、と思ったけれど、そういうわけでもなさそう。パソコンで書いていて、推敲時に並び替えようとしてワンパラグラフ、コピーをしたあと、ちょっと手を入れて、もとの場所にあったワンパラグラフは消し忘れてしまった、というような感じである。文庫書き下ろしではなく、単行本の文庫なのに。文庫にする際に、編集者と校閲者が読んでいるでしょうよ。だいじょうぶか新潮社。

内容は、芸術家の小伝記集や時代背景解説といったおもむきの作品で、へえ知らなかったなあということも多々ありました。ピカソの孫たちの生涯は悲惨だったとか、モディリアーニの妻ジャンヌはモディリアーニの死の直後、妊娠の身でありながら自殺した、とか。
モネの庭で、マネとルノワールがモネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたときに、マネがモネに「君の友達(ルノワール)は本当に才能がないね、君、友達なら、絵をやめるよう助言してやったほうがいいよ」と耳打ちした、なんていうエピソードも傑作である。

「今日では、芸術作品の解釈は見る側の自由とされ、表現に意味や説明を求めること自体が芸術への無理解としかみなされない。が、美術や音楽を鑑賞する際に感覚のみを頼るのは近代以降に特徴的な習慣であり、それ以前、つまり美術史や音楽史の大半を占める時代においては、表現の意匠や形式には私たちの想像を超える配慮や祈念というものが込められていたのである。」(117ページ)とあるのも、近代の見方しかしらなかった自分にははっとさせられた。一方で、中野京子さんなどの美術の解説本が流行ったり、美術館でイヤホーンでの解説端末が流行ったりと、一般人は「表現に意味や説明を求める」欲求が押さえられないものだなあ、とも思う。
ここで指摘されているのは西洋画で、「表現の意匠や形式」というのは主にキリスト教世界のことだけれど、日本はどうだったんだろう。日本画日本画で、また別の表現のバックグラウンドがあったんだろうね。

まあ、とはいえ、ピカソの退廃的で破滅的な人間関係について知ったあとであっても、本書に掲載されている「子どもたちとの食事」という作品は、えも言われぬ気持ちになった。たとえそれが近代的なまなざしによる「自由な鑑賞」であっても、やはり、いい絵はいいもんだなあ、と近代人的に感動した。