『大放言』百田尚樹

大放言 (新潮新書)

大放言 (新潮新書)

百田尚樹『大放言』(新潮新書)を読了して、古市憲寿の『誰も戦争を教えられない』(講談社α文庫)を読んでいる。世界中の「戦争博物館」を巡った軽妙なエッセイだ。
百田尚樹の前に、高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)と、松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書)を読んでいた。高橋のは、朝日新聞のオピニオン欄に連載されていたコラム。松元のは、昨年の石橋湛山賞受賞論文だ。

主義思想はとりあえず脇に置いておいて、
百田『大放言』は、古市や高橋、松元と比較した限りでは、本として、もう圧倒的につまらなかった。

ここからが面白くなりそう! というところで、百田さんって、ふっと話をやめてしまう。どうしてなのだろう。

そしてなによりも、「左翼文化人」とか「人権派弁護士」とか「民主主義」を標榜する輩、といった、のっぺらぼーの、何者か分からない人たちに向かって、一生懸命、何事かを伝えようとしているのだけれど、一体、それって誰なの? ということが、もう、まったく分からない。(僅かに出てくる実名が本多勝一くらい)。
もし、百田さんが、
「戦争について、鶴見俊輔はこういうけれど、自分はそう思わない。」
「女性問題について、上野千鶴子はこういうけれど、それは事実誤認だと思う。」
「死刑問題について、森達也はこういうけれど、それは現実的ではない。」
「若者問題について、本田由紀はこういうけれど、実感できない。」
「格差問題について、湯浅誠はこういうけれど、それは格差の一面だ。」
みたいに論じてくれれば、かなり具体的な対話が始まるはずだ。百田さんの思いも、より的確に読者に伝わるだろう。

相手の言葉に耳を傾け、咀嚼し、自分の思いも伝える。
自分の考えが変わることを恐れず、相手の考えが変わることを期待しながら言葉を選ぶ。
そういう本に出会うと、もう、すごくわくわくする。

すくなくとも『大放言』は、そういう本じゃなかった。

そこでもう一つ考えなければならないのは、なぜ、こういう本が売れるのだろう、ということだ。
今私が一番考えなければならないのは、そこのところだという気がする。