『反知性主義』森本あんり

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)


森本あんり『反知性主義』読了。めためた面白かったです。
私も、ゴスペルを通じてアメリカの教会に触れて、反知性主義の表現の1つである「リバイバル」や、アメリカ人キリスト教徒への違和感を感じたことがある分、その歴史を知ることができて、よかった。

ちなみに「反知性主義」という言葉を初めて使ったのはアメリカのホフスタッターという社会学者だそうだけれど、その本来の「反知性主義」というのは、今、日本で盛んに使われている「反知性主義」とは全然別ものだそうだ。
簡単に言うと、反知性主義とは「知性が権力と結びついて特権階級化することへの反発」であって、知性そのものを否定するのではないらしい。

だから、たとえば、特定の教派が政治を司ることへの反発から、政教分離が生まれたり、
すべての人は神の前に平等という信念から、奴隷解放運動や男女同権運動が推進されたりしてきた。
ときに、「知性主義」の知性を凌駕する知性でもって、ラディカルに権力を批判し、権力者の鼻を明かし、大衆の喝采を浴びる。
それが「反知性主義」だという。
ところが、やがてアメリカ特有のプラグマティズム(実利主義)や、アメリカ資本主義(いずれも、もともとはラディカルな平等主義から生まれたものだそうだけれど)と結びつき、戦時中は愛国主義とつながって、逆に権力者の側に立ってしまったり、
現在は、「反知性主義」を支えた「神」が脇役になって、単なる「楽天病」(辛いことは見ない、考えない)に陥ったりしている、という。

森本あんり先生の分析はここまでだけれど、管見では、それでも、アメリカのラディカルな権力への反発は生きているなあと思った。
だから、ブッシュさんのあとにはオバマさんが大統領になるし、スーザン・ソンタグチョムスキーの政治批判が一定の力を持つし、スピルバーグが政権批判の映画をつくってヒットしたりするんだろう。

森鴎外に「最後の一句」という短編があって、江戸時代末期、自らを引き換えに一揆を先導した父の命乞いする少女が「お上のことに、間違いがあるはずがありませんから」と言い放ち、代官の心を射る、という話なのだけれど、
アメリカ人にはこういう「お上」意識は、まったく意味不明だろうね。

ともあれ、佐藤優にせよ内田樹にせよ、日本の政権やネットウヨクらをを「反知性主義」と呼ぶのはやめたほうがいい。
「嫌・知性主義」とか「棄・知性主義」とか、なんか、適当なネーミングをして、アメリカの「アンチ・インテレクチャル」とは別物よ、とはっきりさせたほうがいいんじゃないかな。

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(補足)

「あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないか。」

香山リカが、webRonzaで同じ箇所と、もう一つ次の箇所を取り上げている。

キリスト教に限らず、およそ宗教には『人工的に築き上げられた高慢な知性』よりも『素朴で謙遜な無知』の方が尊い、という基本感覚が存在する。」

そして、
「いまの日本の「反知性主義」を批判しつつも、私はこの感覚にもどこか同意したくなる。 学者たちが集会の演壇で「安保法制は立憲主義の破壊、『知性の危機』『学問の危機』なのです」と声高に訴えるのを聴いているうちに、その学者のひとりとして参加しているはずの私でさえ、ふと「知性や学問が危機かどうかなんてこっちには関係ないよ」と鼻白んでしまうことがあるのだ。」
と告白している。

斉藤美奈子も、「ちくま」9月号でやはり森本先生の『反知性主義』をとりあげて、

「日本の知識人はバカの悲しみにに鈍感なところがあるからな。
・・・・・・反知性主義(今日の文脈での)を批判するインテリ層は、まず自分の胸に手をあてて、知性や教養が嫌われた理由をマジメに考えるべきではあるまいか。〈反知性主義に対抗するために重要なのは、知性を復権することだ。それは主に読書によってなされる〉(『知性とは何か』佐藤優)などと説いたところで、何の足しにもならないのだ。」

と書いている。

知性を磨きなさい、本を読みなさい、異なる意見に耳を傾けなさい、よく咀嚼しなさい、自分の思いを相手に伝わる言葉にしなさい、
なによりも「対話」が大事、社会とは歴史とは人間とは、「言葉」によって作られるモノである・・・・・・。
私が15年近く作ってきた高校生むけの国語の教科書には、一貫してそう書いている。
間違ってはいない、と思っている。
でも、でも、それって、この教育格差社会の中では、万能ではないなあ、
むしろ、分断させちゃっているのかもしれないなあ、
奥田愛基さんのすばらしいスピーチと、それに向けて投げつけられる、およそ知性にほど遠い罵声(Facebookでちょろっと見ちゃった)を前に、呆然としている。
売れている、という百田尚樹の本に、「対話」への意欲や努力を見つけられなかったという事実も、ちょっと心を暗くしている。

主イエスは、どうやって、人々の心を捉えたのだろう。
彼は、インテリではなかったのに。
どうしたらいいのだろう。

相変わらず、職場のデスクで、高校生に届けなければならない何百本もの「評論・小説・随想・詩」――つまり、「言葉」――の海に溺れそうになりながら、
祈りの言葉が、思い浮かばない。