『カント 信じるための哲学』石川輝吉

カント 信じるための哲学 「わたし」から「世界」を考える (NHKブックス)

カント 信じるための哲学 「わたし」から「世界」を考える (NHKブックス)

「カントはこう言っている。ようするに、推論を重ね、世界全体に至ろうとする理性にとって、世界の起源はある(有限)とする正命題は小さすぎ、世界の起源はない(無限)とする反対命題は大きすぎるのだ」
この一行がおもしろくて、なんども何度も考えてしまう。「世界が有限だったら」・・・・・・その「有限」の壁の向こうにはなにがあるのか? 「世界が無限だったら」・・・・・・宇宙はビックバンから始まったのではなく、人間にはまったく想像できない「永遠」というものが「存在」することになる・・・・・・。
つまり、人間の「理性」や「認識」には限界がある。人間には「けっして知りえない不可知のもの」がある。それを「物自体」という。「不死の魂も世界そのものも神の存在も、物自体であって、これについて理性が言い当てようとすればかならず失敗する。」
ここで「宗教」と「哲学」はきっぱり道を分かれていくんだなあと理解する。これは、キリスト教という「宗教」を持っているnikkouには、ちょっとおもしろい思想でありました。つまり、「哲学」は今生きている私にとって「世界」がどう見えるか、ということを、ある限界の中で考え抜く方法であって、「宗教」はその限界の先にあるものを「物語」として受け取っていく方法なんだ、と理解したのであります。そうすると「宗教」とは、「物語」つまり「フィクション」であり「作り話」であり「偽物」なのか、というと、そうではない。「物自体」については、そもそも不可知なわけだから、そこは問わないか、すくなくとも「保留」にしておいて、「物自体」が「存在する」という前提のもとで広がっていく世界を享受するのが、わがクリスチャンライフ。その広がりを、「わたしには世界がこう見えています」と、周囲の人々に無理なく説明する語彙や心構えの参考になるのが「哲学」かな、と思ったのであります。
そういえば先日読んだ「命はなぜ大切なのか」の著者も、クリスチャンでありつつ、「現象学」から学んだ、ということだった。「哲学」と「宗教」の道筋をつけたのがカントだったのなら、現代に生きるクリスチャン日本人として、とても頼もしい存在だったんだなあ、という気がする。